1854年2月13日、神奈川沖にペリーが7隻の軍艦を率いて来航します。これが2度目の来航になります。 この後、幕府は日米和親条約を結び、日本は開国を果たします。 日本開国という大スクープはすぐさま他国へ知れ渡り、イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んでいます。
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件です。 その猟奇性ゆえに、事件発覚後および逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1945年6月19日、静岡大空襲が行われました。 3時間あまりの空襲で死者は1,952名、負傷者は5,000名以上に上りました。 この空襲の様子は、駿河湾越しに沼津市や西伊豆一帯からも静岡市街が真っ赤に燃えているのが分かったといいます。
寛永13年5月24日、”独眼竜”伊達政宗が亡くなりました。 政宗は徳川家光から「伊達の親父様」と慕われ、政宗も家光に諫言できるほどに信頼関係がありました。 政宗が亡くなった時、庶民に対しても江戸で7日間・京都で3日間喪に服すことが命じられ、これは外様大名に対する礼としては異例の対応でした。
1872年6月12日、品川〜横浜駅間で日本初の鉄道が仮営業をはじめました。 新橋〜横浜駅間での正式開業は約4ヶ月後の10月となっています。 この鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上しました。 写真は明治時代に撮影された品川駅の様子です。
1873年6月11日、日本初の銀行である国立第一銀行が設立されました。 渋沢栄一らによって、1872年に定められた国立銀行条例の公布に伴い完成しました。 「国立」とありますが、これはアメリカの「National Bank」の直訳で、実際は両替商をしていた三井組と小野組を中心とした「民間」の銀行でした。
1919年1月16日、酒の製造や販売などを禁じた禁酒法がアメリカ議会を通過し、翌年に施行されました。 しかし、飲酒を完全に規制することは難しく、秘密の酒場(スピークイージー)が繁昌し、密造酒も高額で売買されました。 写真は禁酒が徹底されていない様子を皮肉った広告です(1926年頃)。
1914年12月20日、東京駅が開業しました。 国家の象徴的位置づけとして、オランダやイギリスの駅舎をモデルに皇居の正面に建設されました。 構内の配置を担当していたドイツ技術者のバルツァーは日本風の駅舎を提案しましたが、日本側に反対意見が多く実現しませんでした。
日露戦争における日本の辛勝は、戦争遂行のための資金調達に成功したことが大きかったと言えます。 その資金調達に尽力した人物こそ、当時日銀総裁だった高橋是清でした。 交渉の末、戦費の約7割を、外債で賄うことに成功しました。 ちなみに、この外債の完済まで戦後の1986年までかかっています。
1936年11月7日、国会議事堂の竣工式が行われました。 着工から17年の歳月を経て完成し、明治時代より建設が計画され、仮議事堂で行われてきた議会はついに正式な議事堂で行われることとなります。 戦時中は空襲対策で迷彩が施され、戦後は食糧対策のため議事堂前広場も畑になりました。
1853年1月29日、北里柴三郎が生まれました。 北里は破傷風の治療法である血清療法を発見しました。菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に交代を生み出す画期的な手法でした。 北里はこの活躍によりノーベル賞候補となりますが、共同研究者のベーリングのみが受賞する結果となってしまいました。
戦後、犬養毅の最期の言葉は『話せばわかる』だったと喧伝されてきました。 しかし、娘の道子氏によれば、『話を聞こう』というのが正確な内容であったと述べています。 犬養家に長年仕えていた女中も、死にゆく主の口から『話せばわかる』という言葉は発せられなかったと証言しています。
山崩れで一族滅亡した戦国大名 内ヶ島氏理 戦いに敗れて滅亡した戦国大名は数多くいますが、災害で滅亡したのは内ヶ島氏だけです。 白川郷の支配者として君臨し、上杉氏や織田氏と渡り合うも、戦国最大の地震による山崩れに城ごと飲み込まれた内ヶ島氏の歴史を紹介します! rekishock.com/%e3%80%90%e5%b…
1893年7月11日、御木本幸吉が相島(現ミキモト真珠島)で世界で初めて真珠の養殖に成功しました。 1927年には渋沢栄一の仲介で発明家のエジソンとニューヨークで会見し、エジソンから真珠の養殖成功を絶賛されています。 これを機に「ミキモト・パール」の名がアメリカ全土に知れ渡ったそうです。
1971年9月18日、日清食品が「カップヌードル」を発売しました。 チキンラーメンの開発者である安藤百福がアメリカにも売り込みますが、箸と丼が身近になく売れませんでした。 アメリカ人が袋麺を紙コップに入れ、フォークで食べていたのを見て現在のカップ麺が開発されました。 #カップヌードル50周年
1860年3月24日(安政7年3月3日)桜田門外の変が起こりました。 大老の井伊直弼が暗殺されたこの事件は、当時の記録では「井伊直弼は急病を発し、相続願いを提出した後に病死」となっています。 これは当主死亡による井伊家の御家断絶、変を起こした水戸藩への御家断絶処分を防ぐための配慮でした。
1945年8月20日、真岡郵便電信局事件が起きました。樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が終戦後も続いていました。 真岡郵便局の電話交換手は引き揚げをせずに業務中でしたが、真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手が局内で自決を図り、9名が亡くなりました。
今日は『簿記の日』です。 1873年2月10日に、簿記の原点である福沢諭吉の訳本『帳合之法』が慶應義塾出版局から発行されたことにちなみます。 福沢諭吉は会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物として知られています。借方、貸方という語は諭吉の訳によるものです。
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結されました。 これにより日本と連合国の戦争状態が終結しますが、ソ連は米軍の駐留に反対し条約に署名せず、現在もロシアとの講和条約は締結されていません。 同日、日米安全保障条約が締結され、引き続き米軍が日本に駐留することとなります。
松平勝俊救出作戦の頃(1570)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 松平勝俊 18歳 井伊直政 9歳 於大の方 42歳 久松長家 44歳 榊原康政 22歳 本多忠勝 22歳 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 服部半蔵 28歳 武田信玄 48歳 山県昌景 41歳 武田勝頼 24歳 #どうする家康
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡しました。 6歳の安徳天皇をはじめ、母の建礼門院、平宗盛、平知盛ら一門が次々と入水しました。 この内、平宗盛、平時忠、建礼門院らが生き残り京に護送され、総帥であった平宗盛は斬首、平時忠は流罪、建礼門院は出家し余生を送りました。 #鎌倉殿の13人
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失。 襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1894年9月17日、日清戦争で「黄海海戦」が起きました。 この海戦で、清国主力の北洋艦隊を撃破しました。 北洋艦隊の水師提督・丁汝昌は、伊東祐亨中将率いる連合艦隊に敗れ、部下の助命を条件に降伏した後、毒を仰いで自決しました。 伊東は敵将である丁に敬意を表し、丁の遺体を帰国させました。