1940年8月8日、戦艦大和が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし、機密保持の点から、進水式は公表されていませんでした。 式には久邇宮朝融王が臨席しましたが、一般客はおらず、工廠関係者たち約1,000人に見守られながら静粛に執り行われました。 写真は進水式の翌年に呉工廠にて撮影された大和です。
今日は富士山の日です。 写真は明治時代に撮影された富士山の様子です。
1832年9月13日、鼠小僧が処刑されました。 大名屋敷のみを狙って盗みを行い、それを貧しい人に施したことから義賊と讃えられています。 捕まった時は財産はほとんどなく、処刑前の市中引き回しでは有名人の鼠小僧がみすぼらしい格好だと反発を買うことから、奉行所が豪華な着物を用意したといいます。
1936年2月26日、日本陸軍の青年将校らによるクーデター「二・二六事件」が起きました。 この事件により、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実、陸軍教育総監の渡辺錠太郎らが殺害されました。 昭和天皇は、当初よりこの蹶起に批判的で、「君側の奸」を排除せんという将校らの思惑は一蹴されました。
1945年8月14日、京橋駅前空襲が行われました。 約150機のB29は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下しました。 京橋駅では乗客がホームに避難していたところに、1発の1トン爆弾が高架を突き破ってホームに落下して爆発し、爆弾の直撃を受け約800人の犠牲者が出ました。
今日は『ネコの日』です。 ネコはネズミの害から穀物を守るために奈良時代頃に中国から輸入され、以降長きにわたって鼠害防止の益獣、および貴重な愛玩動物として扱われました。 江戸時代にはネコが貴重で少なかったため、ネズミ駆除のために猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいました。
1872年1月13日、幕末四大人斬りの一人である河上彦斎が亡くなりました。 片手抜刀の達人で、佐久間象山を暗殺したことで知られています。 明治以降も攘夷を主張したことから新政府に危険視され斬首されました。 『るろうに剣心』の緋村剣心、『銀魂』の河上万斉のモデルとしても知られています。
今日は敬老の日です。 1947年に兵庫県で「敬老会」が開催されたのが始まりで、1966年に祝日として制定されました。 会を主催した村長の門脇政夫は、「老人を大切にし、年寄の知恵を借りて村作りをしよう」と戦後の混乱期かつ子供を戦場に送り精神的に疲労の極にあった親世代に報いようとしました。
三方ヶ原の戦い(1573)の頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 29歳 瀬名 31歳前後 本多忠勝 25歳 榊原康政 25歳 本多忠真 42歳 夏目広次 55歳 石川数正 40歳 井伊直政 11歳 水野信元 51歳前後 佐久間信盛 45歳前後 武田信玄 51歳 山県昌景 44歳 武田勝頼 27歳 #どうする家康
1935年8月12日、皇道派の相沢三郎が、統制派の永田鉄山を斬殺しました。 統制派が皇道派の追放を試みた事への反感から起こった事件で、のちの二・二六事件へ繋がっていきます。 永田鉄山の軍人としての評価は高く、「永田鉄山が生きてたら太平洋戦争は起きなかった」とも語られる程だったとか。
1898年11月12日、ジョン万次郎が亡くなりました。 14歳の時に漁の途中で漂流し、アメリカ船に救助され、ハワイを経てアメリカ本土にたどり着きました。 その後はアメリカの学校に通い、捕鯨船員などで資金をためた後に自費で帰国しました。 帰国後は幕府、政府の欧米派遣に随行するなど活躍しました。
今日は「春分の日」です。 戦前は春季皇霊祭と呼ばれていました。 もともとこの日はお彼岸で、明治時代に、それまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋にまとめ、奉祀したのが始まりです。 戦後になって「春分の日」と改称されました。
1982年1月11日、ゼロ戦の設計者である堀越二郎が亡くなりました。 海軍からのあまりにも高い性能要求に対し、堀越は格闘性能、航続力、速度の全てを満たすように努めました。 ゼロ戦の防弾性能については「戦闘機には優先順位があり、防弾がなかったのは当然」と語っています。
戦前に撮影された織田信長ゆかりの地 1枚目から清洲城跡、熱田神宮、津島神社、桶狭間古戦場跡です。 清洲城は江戸時代に廃城となり、現在あるのは1989に作られた鉄筋コンクリート造の模擬天守です。 #麒麟がくる総集編 #麒麟がくる
1944年8月22日、対馬丸事件が起きました。 那覇国民学校の児童、教師ら1,661名が沖縄から長崎に向けて疎開する途中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け、1,484名が亡くなりました。 乗客のほとんどが船倉にいて避難が遅れたうえ、他の船が攻撃を避けるために救助に向かえず、被害が拡大しました。
1884年12月30日、東條英機が生まれました。 東條は三男でしたが、長男と次男はすでに他界しており、家督を継ぐ長男として扱われました。 戦争指導者のイメージが強いですが、実務能力に秀でた優秀な軍官僚で、天皇に対する忠義も人一倍あり、昭和天皇も東條に全幅の信頼を寄せていました。
1945年6月23日、沖縄戦が終結しました。 日本側の死者、行方不明者は188,136人で、民間人の死者は94,000人でした。 アメリカ軍も死者 行方不明者が20,000人以上に上り、この被害はアメリカ軍に衝撃を与え、日本本土侵攻作戦の方針決定に大きな影響を与えたといいます。
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
上野公園内にある上野東照宮。 日光東照宮、久能山東照宮と並んで三大東照宮とされています。 伊勢津藩主の藤堂高虎が屋敷の敷地内に創建したのが始まりで、徳川家光によって改築されたものが上野戦争や第二次世界大戦の戦火を免れ今も残っています。 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜が祀られています。
1946年7月6日、甲府空襲が行われました。 約3時間の空襲で740名の死者が出ました。 大きな軍需工場もない甲府をなぜ空襲したのか疑問に思った市民による調査により、軍事上重要な都市はほぼ爆撃を加えており、東京に近く規模もある甲府がたまたま狙ったとする調査結果が2017年に明らかになりました。
1835年3月23日(天保6年2月25日)第4代総理大臣の松方正義が生まれました。 松方は女好きで、非常に子沢山であり、15男11女の子がいました。 明治天皇から「何人子供がいるのか」と尋ねられた際にとっさに思い出せず、「後日調査の上、ご報告申し上げます」と言ったそうです。
掛川城攻めが行われた頃(1569年5月)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 26歳 今川氏真 31歳 糸 21歳前後 鳥居元忠 30歳 平岩親吉 27歳 酒井忠次 42歳 石川数正 36歳 本多忠勝 21歳 榊原康政 21歳 服部半蔵 27歳 武田信玄 47歳 山県昌景 40歳 穴山信君 28歳 #どうする家康
1867年10月18日、アラスカがロシアからアメリカに売却されました。 アラスカの経営に行き詰まったロシアが現在の価値で約140億円ほどでアメリカに売却しました。 アメリカでも当時は「巨大な保冷庫を購入した」と非難されますが、その後金鉱や油田が発見され、アメリカに莫大な利益をもたらしました。
1912年9月13日、乃木希典が明治天皇の後を追って殉死しました。 乃木は日露戦争の旅順攻囲戦を指揮し、情報や物資が不足する中でロシアを圧倒し、「日露戦争の英雄」とも呼ばれています。 この和やかな写真が撮られた日、つまり、明治天皇の「大喪の礼」が行われた日に妻・静子と共に自刃しました。
徳川慶喜は父の斉昭に厳しく躾けられました。 慶喜は幼い頃寝相が悪く、斉昭は寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てたといわれています。 慶喜は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと分かっていましたが、寝心地は悪く、繰り返すうちに寝相を治したそうです。 #青天を衝け