1935年3月8日、忠犬ハチ公が亡くなりました。 ハチは玄関先や門の前で必ず主人を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えもしていました。 しかし主人が急死、ハチは別の家に引き取られますが、主人の帰宅時間になると渋谷駅に行き道行く人々を眺め、道中では主人の旧宅を窓から覗く日々を繰り返しました。
1923年9月1日、関東大震災が発生しました。 M7.9という東日本大震災に比する規模の大地震で、更に火災による被害も重なり、約10万人の方が亡くなりました。 また、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火して回っている」といったデマが広まり、多くの無実の朝鮮人が殺害されました。
1821年8月7日、伊能忠敬らが作成した日本地図「大日本沿海輿地全図」が幕府に献上されました。 見張るべきはその「正確さ」で、現代の地図と比較しても大きな誤差がありません。 近代的な測量技術と地図作成能力が、当時の日本にあったことを示す、歴史的な偉業であったといえます。
藤原兼子は、自身には子はいなかったものの、姪など親族が後鳥羽上皇との間に皇子を産んだことで権力を持つようになりました。 兼子が頭角を現し始めたのは、初めて結婚した45歳の頃で、一人目の夫を失った際には、兼子の政治力を求めて再婚の申込が跡を絶たなかったといいます。 #鎌倉殿の13人
1945年8月18日、占守島の戦いが始まりました。 ポツダム宣言受諾後、停戦状態であったにも関わらずソ連軍は武装解除中の日本軍を奇襲攻撃します。 池田末男大佐を中心とした日本軍は戦闘を優位に進めるも、21日に降伏、武装解除しました。 捕虜となった日本兵はシベリアに抑留されることになります。
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没しました。 死者は2,740名、生存者は269名でした。
今日は「春分の日」です。 戦前は春季皇霊祭と呼ばれていました。 元々この日はお彼岸で、明治時代にそれまでの歴代天皇や、主たる皇族の忌日を春と秋にまとめ、奉祀したのが始まりです。 戦後になって、「春分の日」と改称されました。
今日は新選組の日です。 京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」に、会津藩主で京都守護職の松平容保から会津藩預りとする連絡が入り、新選組が正式に発足したことにちなみます。 その後、池田屋事件、禁門の変で活躍し、知名度も上がっていくことになります。
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1946年9月5日、クイーンのボーカリスト・フレディ・マーキュリーが生まれました。 ロンドンの自宅には日本庭園を作る程の親日家で、来日公演時以外にもお忍びで来日し、伊万里焼などの骨董品を蒐集していました。 また、日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だったそうです。
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1938年10月5日、詩人の高村光太郎の妻、智恵子が亡くなりました。 のちに高村光太郎が妻のことをうたった詩をまとめた『智恵子抄』に収められている詩のひとつにある、智恵子が亡くなる数時間前にレモンをかじる姿をうたった「レモン哀歌」にちなんで、今日は「レモンの日」とされています。
元弘3年5月22日は新田義貞ら倒幕軍によって鎌倉が攻められ、北条高時ら北条一族、幕府の中枢280人あまりが東勝寺で自害し、鎌倉幕府が滅亡した日。 よりによって5月22日の放送で、高時たちの祖先の北条義時に鎌倉攻めの策を渡す三谷脚本… #鎌倉殿の13人
厳密には「平家」と「平氏」は意味が異なります。 源氏と並び平氏は姓の一つで、平氏の多くは武士として地方に下り、その土地を名字として名乗ります。 一方、平清盛ら伊勢平氏は名字を名乗らずに「平」という姓のままで朝廷に仕え続けたため、清盛の一族を平家と呼ぶようになります。 #鎌倉殿の13人
1784年4月12日、福岡県の志賀島にて「漢委奴国王印」と印字された金印が発見されました。 中国の歴史書『後漢書』には、57年に光武帝が倭奴国王に印綬を与えたと記されており、その印綬とこの金印が一致すると考えられています。 金印の一辺は2.3cm、重さは108gで、つまみは蛇をかたどっています。
1982年1月11日、ゼロ戦の設計者である堀越二郎が亡くなりました。 海軍からのあまりにも高い性能要求に対し、堀越は格闘性能、航続力、速度の全てを満たすように努めました。 ゼロ戦の防弾性能については「戦闘機には優先順位があり、防弾がなかったのは当然」と語っています。
【諜報のプロ】 ある日、独と露の士官が明石元二郎に仏語で「貴官は独語ができるか」と尋ねる。明石は「仏語がやっとだ」と態と下手な仏語で答える。すると2人の士官は安心して、独語で重要な機密について話し始めました。しかし、明石は独語を完璧に理解しており、その機密は筒抜けだったそうです。
戦前に撮影された上野の風景
1945年6月5日、神戸大空襲が行われました。 神戸は終戦の年の1945年に大小合わせて128回の空襲を受けており、特に大きかった2度の空襲と6月5日の空襲で神戸市全土が壊滅状態となりました。 『火垂るの墓』の作者、野坂昭如も空襲で住んでいた家を失っています。
今から約100年前に政府が発行した、スペイン風邪に対する感染予防を求めるポスターです。 日本では1918年から1921年にかけて計3回流行し、第一波では2,116万人が感染、25万人が死亡、第二波では241万人が感染、12万人が死亡しました。 世界全体では、1億人が亡くなったともいわれています。
五・一五事件での犬養毅の最期の言葉は、戦後『話せばわかる』だったと喧伝されてきました。 しかし、孫の道子氏によれば、『話を聞こう』というのが正確な内容であったと述べています。 犬養家に長年仕えていた女中も、犬養の口から『話せばわかる』という言葉は発せられなかったと証言しています。
1835年1月9日、三菱創始者の岩崎弥太郎が生まれました。 弥太郎は日本で初めてボーナスを出した人物です。 英国海運会社との競争で、社員は給与1/3を返上し経費削減を実行し勝利したため、年末に賞与を支給しました。 また弥太郎は 「年下や後輩に奢ること」を習慣とし、これを家訓として残しました。
1869年6月20日、土方歳三が戦死しました。 箱館戦争では松前城を陥落させるなど指揮官として活躍し、新政府軍が上陸しても、土方が守る二股口では連戦連勝していました。 最期は新選組の守る弁天台場が新政府軍に包囲され孤立していたところを救出するために出陣したところを撃たれ亡くなりました。
1913年9月4日、田中正造が亡くなりました。 日本初の公害事件である足尾銅山鉱毒事件で抗議活動の中心となり、明治天皇への直訴も行いました。 その後も栃木県谷中村の貯水池化への反対運動に参加するなど抗議活動を続け、死去時にはほぼ無一文であったといわれています。
渋沢栄一の長女の長女の歌子と二女の琴子の写真です。 歌子は枢密院議長となる穂積陳重に嫁ぎ、琴子は大蔵大臣、東京市長を務めた阪谷芳郎に嫁ぎました。 #青天を衝け