1948年5月12日、太宰治が『人間失格』を脱稿しました。 他人の前では面白可笑しくおどけてみせるが、本当の自分を誰にも曝け出すことの出来ない男の人生をその男の視点で描いた作品で、現代に渡り読み継がれています。 また、太宰はその1か月後に、山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しています。
1989年2月9日、漫画家の手塚治虫が亡くなりました。 来る仕事をほとんど拒まなかったため、常に原稿の締め切りに追われていたそうです。 そのせいか、鉛筆で下書きをせずにペン入れしたり、揺れるタクシーや飛行機の中でも、フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができたようです。
1869年6月20日、土方歳三が戦死しました。 箱館戦争では松前城を陥落させるなど指揮官として活躍し、新政府軍が上陸しても、土方が守る二股口では連戦連勝していました。 最期は新選組の守る弁天台場が新政府軍に包囲され孤立していたところを救出するために出陣したところを撃たれ亡くなりました。
1912年の4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
1905年3月10日、日露戦争の奉天会戦で日本がロシアに勝利し、奉天を占領して奉天城に入城しました。 これを記念し「陸軍記念日」として、日本海海戦での勝利を記念した海軍記念日と並んで祝日とされました。 戦後、この祝日は廃止されています。 写真は1944年の有楽町での陸軍記念日式典の様子です。
1890年3月6日、明治政府が丸の内を三菱に払い下げました。 当時の丸の内は荒れ野で、三菱二代目当主の弥之助は貧乏くじを引いたつもりで払い下げを受けたと言います。 その後三菱は、丸の内をレンガ造りのオフィス街へと変貌させていき、「一丁ロンドン」と揶揄される日本経済の中心地になりました。
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。 無傷の軍需工場が集中しており、また連合国軍の捕虜収容所がない等の理由から、投下目標都市に広島が決定されたといわれています。 原子爆弾「リトルボーイ」によって、当時の広島市の人口約35万人のうち、約9万~17万人が死亡したとされています。
大正時代の初めごろに撮影された大阪の風景
高島秋帆は日本初となる洋式砲術の公開演習を行なうなど砲術家として活躍しました。 しかし長崎会所をめぐる幕府の抗争に巻き込まれ、岡部藩にて幽閉されますが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触していたそうです。 ペリー来航による社会情勢の変化に伴い釈放されます。 #青天を衝け
1915年1月5日、新選組隊士の永倉新八が亡くなりました。 永倉は鳥羽・伏見の戦いなどで活躍しますが、のちに近藤勇らと意見衝突し新選組を離れます。 その後、出身の松前藩への帰参が認められました。 晩年は妻と子供がの営む薬局がある小樽へ転居、北海道大学剣道部の指導にもあたりました。
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。 無傷の軍需工場が集中しており、また連合国軍の捕虜収容所がない等の理由から、投下目標都市に広島が決定されたといわれています。 原子爆弾「リトルボーイ」によって、当時の広島市の人口約35万人のうち、約9万~17万人が死亡したとされています。
1872年10月14日、新橋-横浜間で日本初の鉄道が開業しました。 徒歩で1日かかる距離をわずか40分程度で運行するという、文明開花の象徴ともいえるできごとでした。 当時の人は鉄道の印象を「早き事神の如し」と語っていたといいます。
戦争で破壊された東京の風景
明治時代に撮影された商売人たちの様子
940年3月25日(天慶3年2月14日)平将門が討死しました。 将門の首は京で晒し首となりますが、何ヶ月経っても腐らず、目を見開いていました。 やがて首は関東を目指して空高く飛び、途中で力尽きた場所が、現在の大手町にある将門塚であるといわれています。
1894年7月9日、徳川慶喜の正室の一条美賀子が亡くなりました。 慶喜との間には女子が誕生しますが夭折し、その後慶喜は長く京に滞在したため、約10年別居生活が続きました。 明治に入ると、10年ぶりに共に暮らすようになり、慶喜が側室との間にもうけた子はすべて美賀子を実母として育てられました。
「正露丸」は「征露丸」とも呼ばれていました。 つまり、「征露」=ロシアを征伐するという意味で、日露戦争の期間に広く軍の間で使用されました。 戦後、戦勝ムードの中で民間にも知れ渡り、「ロシアを倒した万能薬」として多くのメーカーから販売され、日本独自の国民薬として普及していきました。
明治時代頃に撮影された広島県 安芸の宮島の風景
1877年9月24日、西南戦争が終結しました。 西郷隆盛を中心に鹿児島士族達が起こした反乱で、明治初期の一連の士族反乱の中でも最大規模のものです。 政府軍の城山への総攻撃により敗戦を悟った西郷は最期、共に戦った別府晋介に 「晋どん、もうここらでよか」 と介錯を頼み、自決しました。
1945年5月25日、B29爆撃機470機によって東京で空襲が行われ、3,651人の死者が出ました。 この空襲で天下三名槍の一つである御手杵が松平家所蔵の宝物とともに焼失してしました。 当主は槍を埋めるように言っていましたが、家人が宝物にそんな扱いはできないと無視していたことが仇になったようです。
1912年7月30日、明治天皇が亡くなりました。 明治天皇が重態になると、国民は皇居前に集まり平癒を祈願し、東京市は天皇に騒音が届かないように電車を徐行、交差点では軌道にボロ布を敷いたといいます。 明治天皇の崩御は世界各国で報道され、フィリピンでは天皇の挽歌が作られたといわれています。
明治時代に撮影された日本橋 白木屋の店内の様子です。 他店に先駆け、伝統的な呉服店の営業形態だった座売りを廃止し、陳列式に切り替えた店内が特徴的です。 蕎麦屋や寿司店など飲食店も出店し、販売方式の面で百貨店化するとともに、飲食店を併設するという面でも百貨店の先駆けとなりました。
近代以降の織田信長観の変遷 ①朝廷を重視していた信長が、明治時代に当時の最先端の勤王家の先駆けとされ、革新的な人物とされる ②敗戦で勤王家のイメージは消えるも、鉄砲やキリスト教への接し方から革新的なイメージだけ残る ③現代になって、旧来秩序を重視した人物だと再評価中 #どうする家康
1934年5月30日、東郷平八郎が亡くなりました。 東郷死去に際し「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が小学生の見舞状が新聞に掲載され、大きな反響をよびました。 死後に東郷神社が建立され神として祀られますが、生前乃木神社に対抗して、自身の神社の計画があることに強く反対していました。
1945年6月23日、沖縄戦の指揮官を務めた第32軍司令官の牛島満が自決しました。 牛島は自決の直前に軍司令部の事務員の女性に皮財布を遺品として託します。 女性事務員はその後1952年になって牛島の家族を見つけ出し、遺品の皮財布を夫人に届けました。 2枚目の写真は、作戦会議中の牛島(左端)です。