1835年5月31日、新選組副長の土方歳三が生まれました。 土方は容姿が良く芸者、舞妓などから恋文をたくさん送られていました。 土方はそれを木箱にまとめて日野の親戚のもとに「つまらぬ物」と書き送って自慢していました。 「報国の心わするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたといいます。
1864年7月8日、池田屋事件が起こりました。 新撰組は監察の山﨑丞らの活躍により攘夷志士が御所に火を放つ計画をしていることを察知、近藤勇・沖田総司・永倉新八ら4名で池田屋に突入します。 土方歳三ら援軍の到着もあり、新撰組は9名討ち取り、4名捕縛の戦果を挙げ、その名を天下に轟かせました。
1972年2月2日、グアム島に隠れ続けていた元日本兵・横井庄一が帰国しました。 ジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活しており、エビやウナギを採って生きながらえました。 帰国後の記者会見の言葉を捉えた「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となりました。
1893年12月5日、幕末の会津藩主であった松平容保が亡くなりました。 会津戦争後しばらくは朝敵として蟄居の身にありましたが、1872年には許され、その後は日光東照宮の宮司を務めました。 容保の曾孫にあたる徳川恒孝が徳川宗家に養子に入ったことで、現在の徳川宗家は容保の男系子孫となっています。
教科書では絶対に見せない、大正時代の歌人与謝野晶子の笑顔の写真
1945年9月3日、 オーストラリア出身の新聞記者ウィルフレッド・バーチェットが、原爆が投下された広島市を取材し、「No more Hiroshima」という言葉と共に、その惨状を世界に訴えました。 GHQの報道規制があったにも関わらず、広島の惨状を世界に伝えたこの行動は、現在高く評価されています。
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
約60年前に撮影された東京の風景
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が凶弾に倒れる「五・一五事件」が起こりました。 議会制民主主義が根付き始めた一方で、世界恐慌を発端とする大不況が蔓延していた最中の事件でした。 海軍将校らに歩み寄る犬養が射殺され、剰えそれが肯定されてしまったことで、軍部の台頭が加速します。
1915年1月5日、新選組隊士の永倉新八が亡くなりました。 永倉は鳥羽・伏見の戦いなどで活躍しますが、のちに近藤勇らと意見衝突し新選組を離れます。 その後、出身の松前藩への帰参が認められました。 晩年は妻と子供がの営む薬局がある小樽へ転居、北海道大学剣道部の指導にもあたりました。
関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京の様子 #防災の日
1958年12月1日、初の1万円札が発行されました。 当時は、そもそもこのような高額紙幣は発行する必要があるのかという議論がなされましたが、発行されると高度経済成長とともに順調に流通量は増え、日本の発展を支えました。 表面は聖徳太子、裏面は鳳凰、透かしには法隆寺夢殿が描かれています。
明治〜昭和にかけての銀座の風景の移り変わり
約60年前、昭和の東京の風景
今日はクリスマスイブです。 日本では明治初期の1875年に、自宅でクリスマスイブを祝うパーティーの記録が残っています。 欧米に比べ日本では恋人と過ごす日という認識が強く、約100年前から銀座や渋谷では、クリスマスディナーを用意し、店員もクリスマスの格好をして客を出迎えていたといいます。
今日は卵かけご飯の日です。 戦国時代に南蛮人が渡来し肉食とともに卵を食べる文化が根付き、江戸時代後期には鍋島藩の日記に「御丼 生玉子」との記載が残っています。 卵かけご飯の明確な記録が残っているのは日本初の従軍記者である岸田吟香が初めてで、周囲に卵かけご飯を勧めたといわれています。
【高杉晋作の残した言葉 】 “3年は軽挙妄動せず学問をしろ。 そのうちに活躍する時が必ず来る。 英雄は、普段は非人乞食となって潜り、いざという時に龍の如く振舞う。困ったと決して言うべきでない。困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局でも、何困らぬという気概でいれば、自ずと道が開ける”
1867年12月12日、中岡慎太郎が亡くなりました。 坂本龍馬とともに襲撃され、龍馬が即死してから2日後の死でした。 中岡は幕末では珍しい笑顔の写真が残っています。 隣に女性がいると想定されますが、中岡の頬に当てられた手と膝にかかった着物を除いて塗りつぶされてしまっています。
大正時代に流行したスペイン風邪は5,500万人いた日本の人口のうち、約半数が感染したといいます。 1918年10月〜1919年3月の第一波では2,100万人が感染、死者は25万人、1919年12月〜1920年3月の第二波では240万人が感染、死者は12万人、1920年12月〜1921年3月の第三波は感染者、死者ともに少数でした。
1941年12月16日、戦艦大和が就役しました。 当時世界最大の戦艦と称されるほどの大和でしたが、「大艦巨砲主義」から「航空主兵論」へ移行していく時代の波には逆らえませんでした。 輝かしい成果を上げることができず、1945年4月7日に鹿児島県の坊ノ岬沖で沈没することになります。
今日はバウムクーヘンの日です。 1919年3月4日に、現在の原爆ドームである広島県物産陳列館で行われた「ドイツ作品展示会」にて、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたことに由来します。 製作者のドイツ人カール・ユーハイムは、第一次世界大戦で捕虜として日本に連行された人物でした。
浅草・花屋敷の昔と今
1949年8月15日、石原莞爾が亡くなりました。 関東軍参謀として満州事変を起こし、わずか1万の兵で23万の張学良軍を相手に満州を占領しました。 石原は最終戦争として日米決戦を構想していましたが、東条英機との対立により陸軍を追いやられたことで戦後の戦犯指定を免れています。