1600年11月6日、石田三成が処刑されました。 五奉行として豊臣政権で活躍し、関ヶ原の戦いで西軍の中心として戦いますが敗れ斬首されました。 娘が弘前藩津軽信枚の妻となり、子孫は弘前藩主として続き、その縁で次男の重成の家系が弘前藩士となり、シャクシャインの戦いや戊辰戦争で活躍しています。
家康が上洛した頃(1570年4月頃)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 茶屋四郎次郎 25歳 鳥居元忠 31歳 石川数正 37歳 織田信長 35歳 木下藤吉郎(豊臣秀吉)33歳 足利義昭 32歳 明智光秀 54歳 #どうする家康
1868年5月3日、江戸城が新政府軍に無血開城されました。 これにより徳川慶喜は水戸に退去し謹慎します。 江戸開城以前から大久保利通らは大阪遷都論を唱えていましたが、江戸城が無傷で手に入ったことから、遷都先として江戸が急浮上することになりました。
1594年10月8日、石川五右衛門が処刑されました。 都市部を荒らし廻り、豊臣秀吉によって一族もとろも処刑されました。 生きたまま油で煮殺され、子供を守るため自身が息絶えるまで子供を持ち上げていたという伝説が残っています。 江戸時代以降、伝説の大泥棒として多くの作品の題材となりました。
明治時代に外国人によって撮影された日本の風景
1902年7月12日、西竹一が生まれました。 ロサンゼルス五輪の馬術障害飛越競技に、愛馬のウラヌスと共に出場し、金メダルを獲得しました。 この活躍により「バロン西」の名が世界に轟きました。 1945年3月22日、西は硫黄島の戦いで戦死し、ウラヌスもその1週間後、西の跡を追うように亡くなりました。
吉良氏は、室町幕府将軍の足利氏から分家した足利一門で、今川氏は吉良氏の分家にあたります。 吉良義昭の兄、吉良義安の系譜が、後年家康に取り立てられ、忠臣蔵で浅野内匠頭に切られる吉良上野介義央に繋がります。 #どうする家康
1971年9月18日、日清食品が「カップヌードル」を発売しました。 チキンラーメンの開発者である安藤百福がアメリカにも売り込みますが、箸と丼が身近になく売れませんでした。 アメリカ人が袋麺を紙コップに入れ、フォークで食べていたのを見て現在のカップ麺が開発されました。
明治末期、夜の銀座の様子
1932年1月8日、昭和天皇の暗殺を狙った「桜田門事件」が起こりました。 4つある大逆事件の最後の1つです。 犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌(イ・ポンチャン)で、天皇に危害を加えようとした罪などで大逆罪に問われ、死刑となりました。
1970年11月25日、市ケ谷駐屯地において、三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後、割腹自殺しました。 三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、「楯の会事件」とも呼ばれます。 国際的に有名な作家でもあったの三島の起こした事件に、世界中が驚嘆しました。
1537年3月17日(天文6年2月6日)豊臣秀吉が生まれました。 秀吉は人の心を掴む天才で数々の逸話が残されています。 度量も大きく、飼育係が秀吉が可愛がっていた鶴を不注意から逃してしまった際「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したといいます。
家康を支えた豪商 茶屋四郎次郎の子孫は、幕府の御用商人として江戸時代以降も続き、尾張、水戸、紀州の御三家とも分家が繋がりました。 尾張茶屋家の当主、中島恒雄氏は、2000年に東京福祉大学を設立し、運営元の学校法人の名は茶屋四郎次郎記念学園とされています。 #どうする家康
1837年10月28日、徳川慶喜が生まれました。 最後の将軍として大政奉還を行い、明治維新後は徳川宗家とは別に公爵に任じられました。 静岡を拠点に悠々自適の暮らしを送りましたが、新政府に従わずに戊辰戦争を戦った旧幕臣らとは関わることを避け、面会も拒絶していたといいます。
ロサンゼルス五輪の馬術障害飛越競技での金メダリスト、西竹一。 西は10歳で父を亡くしたことで莫大な遺産を相続し、不本意ながら大金持ちになります。 そのせいか、お金の使い方が豪快で、イタリアで一目惚れした愛馬ウラヌスを購入する際も、相場の約5倍の価格でしたが、キャッシュで即決しました。
五・一五事件で犬養毅が暗殺された日、実はチャップリンも来日しており、日本の風紀を乱す彼の芸風を嫌った軍部は、この機会に暗殺を画策していました。 しかし、暗殺情報を事前に掴んでいた世話人の高野虎市の機転により、当夜に官邸で予定されていた歓迎会は中止され、喜劇王は死を免れたようです。
大正時代に撮影された有楽町駅と現在の京浜東北線
今日は富士山の日です。 写真は明治時代に撮影された富士山の様子です。
今だからこそ聞きたい、幕末維新の長州藩の志士たちの名言
1867年11月9日、徳川慶喜が大政奉還を宣言しました。 当初の計画では、政権を朝廷に返上することで倒幕派の名目を失わせ、引き続き慶喜ら幕府が実権を担う予定でした。 しかし、薩長ら倒幕派はこの処置をよしとせず、鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争が勃発し、明治維新へと繋がっていきます。
1835年5月31日、新選組副長の土方歳三が生まれました。 土方は容姿が良く芸者、舞妓などから恋文をたくさん送られています。 土方はそれを木箱にまとめて日野の親戚のもとに「つまらぬ物」と書き送って自慢していました。 「報国の心わするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたといいます。
北条政範が京都に上った頃の登場人物の年齢(満年齢) 北条義時 41歳 北条時政 66歳 北条政子 47歳 北条時房 29歳 北条泰時 21歳 北条政範 15歳 実衣   45歳 源実朝  12歳 三浦義村 36歳 和田義盛 57歳 八田知家 62歳 畠山重忠 40歳 平賀朝雅 22歳 後鳥羽上皇 20歳 #鎌倉殿の13人
1889年1月18日、石原莞爾が生まれました。 関東軍の参謀として満州事変を起こし、約1万人の兵力で23万の敵軍を相手に立ち回り、満州を占領しました。 東京裁判では、連合国が日清、日露戦争の頃まで歴史をさかのぼり戦争責任を問うと言った際、だったらペリーを連れてこいと反論した逸話もあります。
1884年4月4日、山本五十六が生まれました。 太平洋戦争時の連合艦隊司令長官で、父の56歳の時の子だったことから五十六と名付けられました。 母は五十六を45歳で出産しています。 海軍の象徴的存在で、1943年に戦死した際には、皇族、華族以外で初となる国葬が行われました。