1980年6月24日、シャープの創業者である早川徳次が亡くなりました。 早川は事業の第一目的は社会への奉仕と明言し、1944年には失明軍人が働く早川電気分工場を開設します。 戦後に法人化し、現在のシャープ特選工業株式会社を設立、視覚障害者自らが独立採算制で経営する工場として広く知られました。
798年8月17日、清水寺が建立されました。 古くから能や歌舞伎などの伝統芸能が演じられてきた「清水の舞台」ですが、最初から存在した訳ではなく、初めて作られたのは11〜12世紀頃のこと。 その後何回も焼失の憂き目に遭い、現在の舞台は、江戸幕府3代将軍徳川家光の寄進によって再建されたものです。
伊藤博文の女好きエピソード ①留学中、風俗街に入り浸り帰国させられそうになった ②日清戦争で広島大本営滞在時も芸者遊び ③「掃いて捨てるほど女がいる」という意味で「ほうき」というあだ名がつけられる ④『恋の伊藤博文』という本が出版される
1913年7月1日、 小林一三が宝塚歌劇団の前身である「宝塚唱歌隊」を結成しました。 宝塚新温泉にある日本初の屋内プール「パラダイス」が閉鎖された後、跡地を活用した温泉場の余興として、少女達が歌を披露する組織が結成されました。 小学校卒の少女に大卒者並の給与が支払われたそうです。
明治、大正時代の浅草の風景と現代の浅草の比較
江戸時代末期に撮影された江戸城と市中の様子 #青天を衝け
クスッとくる洒落英語(大正15年)
1974年12月28日、カルピス創業者の三島海雲が亡くなりました。 モンゴルで瀕死の状態にあった際に乳酸菌と出会い命拾いした経験から、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」を発売しました。 「カル」はカルシウム、「ピス」はおいしさを表すサンスクリット語です。 水玉のデザインは天の川を表しています。
1941年12月2日、日本軍大本営が「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文により戦艦アリゾナを主標的とした真珠湾攻撃を訓電発令しました。 この6日後、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ海軍に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛け、4年にわたるアメリカとの戦争に突き進んでいきます。
1948年5月12日、太宰治が『人間失格』を脱稿しました。 他人の前では面白おかしくおどけてみせるも、本当の自分を誰にも曝け出すことの出来ない男の人生をその男の視点で描いた作品で、現代まで読み継がれています。 また、太宰は1か月後に、愛人の山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しています。
明治時代に撮影された長崎の風景
1941年12月16日、戦艦大和が竣工されました。 当時世界最大の戦艦と称されるほどの大和でしたが、「大艦巨砲主義」から「航空主兵論」へ移行していく時代の波には逆らえず、輝かしい成果を上げることなく、1945年4月7日に鹿児島県の坊ノ岬沖で沈没させられました。
和田義盛が上総介になりたがった頃の登場人物の年齢(満年齢) 北条義時 46歳 北条政子 52歳 源実朝  16歳 千世   16歳 善哉(公暁)9歳 北条泰時 26歳 初    22歳 北条時房 34歳 北条朝時 16歳 三浦義村 41歳 和田義盛 62歳 八田知家 67歳 三善康信 69歳 大江広元 61歳 #鎌倉殿の13人
イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国の連合軍に占領された長州藩の砲台(長府前田砲台) #青天を衝け
大正〜昭和初期に撮影された札幌の風景
約100年前に掲載されていた、現在でも残っている企業の広告
1909年10月26日、伊藤博文が、日本による韓国支配を嫌った民族活動家・安重根に射殺されました。 しかし、伊藤は韓国併合には否定的で、暗殺により皮肉にも韓国併合が加速しまったという見解があります。 伊藤は自分を狙撃したのが韓国人だと分かると「馬鹿な奴だ」と呟いたそうです。
明治時代に撮影された本能寺 #麒麟がくる総集編
名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に在籍していた石丸進一は特攻隊員として零戦に乗って出撃し、戦死しました。 1942年には17勝を挙げ、1943年には戦前最後のノーヒットノーランを達成するなど、名古屋軍を代表する投手でした。 出撃前に最後のキャッチボールを行い、出撃したといいます。
幕末の偉人たちをディズニー風に加工してみた
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
1902年7月12日、西竹一が生まれました。 ロサンゼルス五輪の馬術障害飛越競技に、愛馬のウラヌスと共に出場し、金メダルを獲得しました。 この活躍により「バロン西」の名が世界に轟きました。 1945年3月22日、西は硫黄島の戦いで戦死し、ウラヌスもその1週間後、西の跡を追うように亡くなりました。
写真は山崎富栄。 太宰治の愛人の1人であり、晩年の太宰をサポートし、共に入水自殺を遂げました。 2人の出会いは屋台のうどん屋。その後、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ちかけられ、太宰夫人・美知子の立場を気遣いつつも、「でも、もし恋愛するなら、死ぬ気でしたい」と答えたという。
愛宕山から見た明治時代の東京の風景
1970年11月25日、市ケ谷駐屯地において、三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後、割腹自殺しました。 三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、「楯の会事件」とも呼ばれます。 国際的に有名な作家でもあったの三島の起こした事件に、世界中が驚嘆しました。