1934年5月30日、東郷平八郎が亡くなりました。 東郷死去に際し「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が小学生の見舞状が新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。 死後に東郷神社が建立され神として祀られますが、生前乃木神社に対抗して、自身の神社の計画があることに強く反対していました。
1974年3月12日、太平洋戦争に従軍し29年間ゲリラ戦を展開していた小野田寛郎がフィリピンから帰国しました。 小野田は拾った日本の雑誌から、東京オリンピック、東海道新幹線開業など、日本が繁栄している事は知っていました。 しかしその日本はアメリカの傀儡政権であると信じていたようです。
1912年9月13日、乃木希典が明治天皇の後を追って殉死しました。 乃木は日露戦争の旅順攻囲戦を指揮し、情報や物資が不足する中でロシアを圧倒し、「日露戦争の英雄」とも呼ばれています。 この和やかな写真が撮られた日、つまり、明治天皇の「大喪の礼」が行われた日に妻・静子と共に自刃しました。
今日はクリスマスイブです。 日本では明治初期の1875年に、自宅でクリスマスイブを祝うパーティーの記録が残っています。 欧米に比べ日本では恋人と過ごす日という認識が強く、約100年前から銀座や渋谷では、クリスマスディナーを用意し、店員もクリスマスの格好をして客を出迎えていたといいます。
1928年11月3日、漫画家の手塚治虫が生まれました。 来る仕事を殆ど拒まなかったため、常に原稿の締め切りに追われていたんだそう。 その所為なのか、鉛筆で下書きをせずにペン入れしたり、揺れるタクシーや飛行機の中でも、フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができたようです。
「正露丸」は「征露丸」とも呼ばれていました。 つまり、「征露」=ロシアを征伐するという意味で、日露戦争の期間に広く軍の間で使用されました。 戦後、戦勝ムードの中で民間にも知れ渡り、「ロシアを倒した万能薬」として多くのメーカーから販売され、日本独自の国民薬として普及していきました。
1879年8月31日、大正天皇が生まれました。 気軽で奔放な性格で、皇太子時代に狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、途中の家でお茶漬けを勧められたり、陸軍の演習中に、突然友人宅を訪問したり、当時上品な場所でないとされていた蕎麦屋に入ったなどのエピソードが残されています。
畠山重忠の乱時の登場人物の年齢(満年齢) 畠山重忠 41歳 北条義時 42歳 北条時政 67歳 北条政子 48歳 三浦義村 37歳 三浦胤義 20歳 源実朝  12歳 三善康信 65歳 大江広元 57歳 平賀朝雅 23歳 足立遠元 73歳 北条時房 30歳 北条泰時 22歳 和田義盛 58歳 八田知家 63歳 長沼宗政 43歳 #鎌倉殿の13人
1867年11月9日、徳川慶喜が大政奉還を宣言しました。 当初の計画では、政権を朝廷に返上することで倒幕派の名目を失わせ、引き続き慶喜ら幕府が実権を担う予定でした。 しかし、薩長ら倒幕派はこの処置をよしとせず、鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争が勃発し、明治維新へと繋がっていきます。
明治時代に撮影された日本三景のひとつ 松島
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
1912年4月10日、タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けて出航しました。 周知の通り、タイタニック号はこの5日後に海上の氷山に衝突し、沈没します。 また、乗船客の中には唯一の日本人で鉄道官僚の細野正文がいました。
1945年8月20日、真岡郵便電信局事件が起きました。樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が終戦後も続いていました。 真岡郵便局の電話交換手は引き揚げをせずに業務中でしたが、真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手が局内で自決を図り、9名が亡くなりました。
1945年9月3日、 オーストラリア出身の新聞記者ウィルフレッド・バーチェットが、原爆が投下された広島市を取材し「No more Hiroshima」という言葉とともに、その惨状を世界に訴えました。 GHQの報道規制があったにも関わらず広島の惨状を世界に伝えたこの行動は、現在高く評価されています。
今日は「日本酒の日」です。 大の酒好きとして知られる名画家の横山大観は、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず、酒と肴と少量の野菜だけで済ませていたようです。 それにも関わらず、大観は大病もせずに90年近い寿命を全うしました。 特に、日本酒「醉心」をこよなく愛していました。
明治時代に撮影された日本の風景
明治時代に外国人によって撮影された日本の風景
1945年8月14日、葛根廟事件が起きました。 満州国で婦女子を中心とした1,000人以上の日本人避難民がソ連軍により虐殺されました。 白旗を上げた避難民に対し、ソ連軍は攻撃を加え続け、戦車に轢かれた者も多くいました。 生き残った者も、中国人暴徒により身ぐるみ剥がされたといいます。
1935年3月8日、忠犬ハチ公が亡くなりました。 ハチは玄関先や門の前で必ず主人を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えもしていました。 しかし主人が急死、ハチは別の家に引き取られますが、主人の帰宅時間になると渋谷駅に行き道行く人々を眺め、道中では主人の旧宅を窓から覗く日々を繰り返しました。
1945年9月に撮影された、復員兵たちを乗せた運賃無料の復員列車。 1947年までに、約624万余人の方々が復員・引揚げにより日本に帰ってしました。
1945年8月6日、原爆投下直後の広島の様子
今日は元日です。 戦前までは法令で祝日とは定められておらず、紀元節、天長節、明治節と並び、四方節として今までの慣習から祝日とされていました。 宮中では早朝に、天皇陛下が天地四方の神祇を拝する儀式である四方拝が行われます。
1912年4月10日、タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けて出航しました。 周知の通り、タイタニック号はこの5日後に海上の氷山に衝突し、沈没します。 また、乗船客の中には唯一の日本人で鉄道官僚の細野正文がいました。
1931年2月16日、俳優の高倉健が生まれました。 共演者に対して挨拶を忘れない礼儀正しい人物であり、監督やプロデューサーだけでなく、若い新人俳優やスタッフにも、必ず立ち上がり丁寧にお辞儀して敬意を払っていました。 千葉真一は高倉を「一生あこがれの存在で永遠の師匠」と公言しています。
瀬名奪還作戦が始まった頃(1562年3月)の登場人物の年齢 (満年齢) 徳川家康 19歳 瀬名 20歳前後 関口氏純 39歳前後 本多正信 24歳 服部半蔵 20歳 酒井忠次 35歳 本多忠勝 13歳 大久保忠世 30歳 石川数正 29歳 久松長家 36歳 於大の方 34歳 今川氏真 24歳 #どうする家康