三菱重工広島造船所の工員合宿所配置図と写真です。 裁判で事実認定された朝鮮人労務者の証言では「寮の周囲には鉄条網が張られ、角には監視塔もあった」とされていますが、実際に写真を見るとそこには鉄条網も監視塔もありません。建物は新築で、内地出身者も半島出身者も同じ条件で生活しています。
写真や当時の資料が散逸してしまうと、こうした荒唐無稽な証言ですら、虚偽であることを証明するのは大変な作業になります。そのため、被害証言というのは言いたい放題になりがちです。歴史を検証するにあたって一次史料の保存記録がいかに大切か、あらためて強く感じます。
三菱重工広島造船所では、日本人と朝鮮人が一緒になってチームで仕事をしていました。朝鮮人だけが過酷な労働をさせられたというようなことはありえないと、当時を知る奥田さんは強く訴えます。むしろ仕事をサボって寮から出勤しない者、どこかにでかけたまま帰ってこない者が多数いて困ったそうです。
朝鮮人はまるで強制収容所に入れられ、拷問を受けながら強制労働させられたというイメージが広がっていますが、寮には裁判で事実認定された憲兵などおらず、寮母さんが世話をしてくれました。寮からも自由に出入りができ、給料も払われ、食事も出され、風呂も用意されました。日本人と全く同条件です。
まだご覧になられていない方、ぜひ、こちらの動画で、三菱重工元社員の奥田さん、寺内さんのお話をお聴きください。 youtu.be/NECP7AJRJNM
三菱重工広島造船所の朝鮮人労務者が利用した寮の食堂の写真。寮母や舎監の手記には「朝鮮の人はニンニクや唐辛子をよく食べるので、唐辛子をたくさん集めにあちこち回った」「彼らがズル休みしても昼食を食堂で食べさせた」。一方、裁判の事実認定では「朝鮮人徴用工の食事だけ腐った臭いがした」。
朝鮮人労務者は「食べ物や生活様式が違うため、よく文句を言っていた」とあります。そのため寮母や舎監は徴用工らに気を使い、なるべく不満を抱かないよう食事も要望に応えようと配慮したことがわかります。裁判では、そうした事実は全く考慮されず「腐った臭い」などという証言を事実認定しています。
三菱重工広島機械製作所では昭和19年9月29日に「半島出身応徴士入所式」が開かれました。式には広島県知事(代理)や広島市長ら要人が参列しています。強制収容所が連行者を収容するのに式は開きません。戦況悪化に伴う日本の窮状を救うため徴用に応じた人々に期待と敬意を込めた式典だったはずです。
当時は、いわゆる「朝鮮人徴用工」のことを「半島出身応徴士」と呼んでいました。”徴用に応じる「士=立派な男子」”という意味です。この名称からしても、奴隷のように強制的に連行された人々という扱いではありませんでした。共に戦う仲間としての期待と敬意が込められた呼称だったように感じます。
三菱重工広島の半島出身応徴士への期待や敬意は、すぐに失望や戸惑いに変わったことが寮母さんの手記から読み取れます。「毎日ズル休みする者が少なくとも1~2人(各部屋に)いた」「食堂から食器を持ち出し(持ち出しは禁止)自分の部屋で便器として使い、窓から外へほうり投げられ」たそうです。
詳細は、画像の手記を読んでいただければ、その実態がいかにひどいものであったか想像がつくと思います。憲兵が監視して、奴隷のように強制労働させられたという証言とあまりに食い違いすぎて、こちらも茫然としてしまいます。もっと、何が実態であったのか当時の一次史料を明らかにしていくべきです。
三菱重工広島の西寮図面です。半島出身応徴士が生活していた建物で100部屋以上あります。寮母さんの手記では「毎日ズル休みする者が少なくとも1~2人(各部屋に)いた」とあるので、西寮だけで少なくとも100人~200人の労務者が毎日ズル休みしていたことになります。それでも昼食は寮で出されました。
仮に寮母さんの手記が大げさだったとしても、毎日数十人の半島出身応徴士が西寮だけでズル休みをしており、三菱重工側は対応に苦慮したことが想像できます。おそらく彼らを迎え入れた時は、全く想定していなかった事態だったと思います。「過酷な労働」という証言と実態は、大きくかけ離れています。
毎日、ズル休みをしている数十人の労務者には寮で昼食を食べさせて、真面目に職場へ行った労務者には「過酷な労働」を強制し、「えげつない差別」のもと「死に至る折檻」などをしていると思う方が理解に苦しみます。 twitter.com/noharra/status…
三菱重工広島の半島出身応徴士たちが寝泊まりした寮の部屋です。(撮影:昭和19年5月)建物は応徴士を迎えるための新築で、戦後は社員寮として使われ、一部は広島カープの合宿所としても活用されました。大勢での共同生活は窮屈だったとは思いますが、決して奴隷のような扱いではありませんでした。
「朝鮮人徴用工の手記」東洋工業で働いた鄭忠海さんが最初に家族に宛てた手紙。「まず安心してくれ。寄宿舎は新しく建てられたきれいな家で畳の部屋は広く清潔で、絹のような寝具が寒くないように準備されており、食事もほどよくしてくれているので暮らしていけそうだ」。三菱重工広島と似ていますね。
手記には、女子挺身隊として全国から勤労動員された日本人未婚女性らの若い女工に囲まれて仕事をしたこと、賭け事で「一カ月、二カ月にあたる給料を、みんなすったとこぼす者も少なくなかった」といった同胞の日常、自身の日本人女性との恋愛についても当時の心境を交えながら詳しく記録されています。
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三菱重工広島では昭和19年12月16日15時半より約2時間「半島応徴士慰問演芸会」が西寮の食堂で開かれ、約千名の応徴士たちが歌と踊りを楽しみました。戦況が悪化する中でも半島応徴士に対する三菱重工の気遣いがよくわかる一次史料です。こうした実態は今まで殆ど知られていないのではないでしょうか。
当時「半島応徴士」たちを受け入れた企業は、三菱重工のみならず、様々な企業が「慰問」のイベントを開催しています。例えば日曹炭鉱天塩鉱業所では、朝鮮将棋、朝鮮楽器、ラジオ、新聞は常備、時には映画会や素人演芸会を開催していたことが「移入半島労務者取扱要綱」からわかります。
三菱重工広島の半島応徴士の皆さんが、働いた後に汗を流した寮の新しいお風呂の写真も見つけました。(撮影:昭和19年5月15日)当時は内地出身者も朝鮮半島出身者も、日本人として同じ条件で受け入れられ、生活環境が整備された中で働きました。「強制収容所」や「奴隷労働」の実態は見当たりません。
三菱重工広島の半島応徴士が生活した「工員合宿所」です。裁判では複数の人物が、寮は「有刺鉄線に囲まれて、監視塔も建っていた」と証言、事実認定されていますが、当時を知る三菱重工の元社員・奥田さんの証言や写真からは、そのような事実は全く認められません。寮は「強制収容所」ではありません。
誤解されている方も多いのですが、三菱重工広島の半島応徴士は、工場の敷地内に閉じ込められて働いていたわけではありません。寮から徒歩で「広島機械製作所」もしくは「広島造船所」へ毎日通勤していたのです。別に鎖に繋がれていたわけではありません。仕事が終われば、普通に寄り道して帰るのです。
三菱重工広島では、半島応徴士が就労してすぐに彼らの「逃走」が問題になりました。約2700人いた半島応徴士は、終戦時には7割以上が逃走してしまいました。しかし三菱重工では、半島応徴士が逃走しても探し出して連れ戻したりしませんでした。なぜなら彼らは、実質的には戦力にならなかったからです。
半島応徴士は「ズル休み」する者も多く、生活面でも問題が多々あったことは寮母さんの手記からもよくわかります。当然、憲兵が監視して「強制労働」させているわけでもないので、どこかへ行って帰ってこない者が大勢いました。三菱重工は、それらをすべて「逃走」として処理せざるをえなかったのです。