NHKをはじめとする日本のメディアは、何でこうした歴史的事実を取材し、きちんと報道しないのか。韓国の言いたい放題に反論せず、どんどん韓国の都合の良いように歴史が歪曲されることで、日本の信頼が損なわれていくのです。どうか新潟の報道機関、しっかり頑張ってください。
朝鮮半島で生まれ郡庁に就職、昭和15年に三菱鉱業に転職し佐渡鉱山で働かれた方(ご家族の希望で匿名)のお話では「強制連行なんてとんでもないよ」「自分で働きに来てもみんな一緒くたに強制連行」「徴用で来たのはそのうちの4分の1もないよ」「日本人も朝鮮人も全く同じ賃金」「一般の町民より優遇」
韓国「ハンギョレ」新聞も”「軍艦島歪曲」に足元掬われた日本、佐渡鉱山世界文化遺産申請に「苦心」”と言いたい放題。軍艦島で歴史歪曲を繰り返しているのは一体どちらなのか?同じように日本が韓国による歴史歪曲被害をこれ以上受けないために、しっかりした反論が必要です。 n.news.naver.com/article/028/00…
新年早々、世界遺産登録をめざす「佐渡金銀山」に対して、韓国メディアからの難癖がエスカレートしています。KBSは対象時期を江戸時代にしたことについて「朝鮮人強制動員関連の言及を省くための小細工」と報道。「日本は軍艦島に引き続き、再び強制動員の歴史を隠そうとしている」と主張しています。
今年も、皆様から多大なるご支援を頂戴し、誠にありがとうございました。来年2022年も、世界中に広がっている「軍艦島の誤解」を解き、”真実の歴史を追求する”活動を続けてまいります。どうか引き続き皆様からの温かいご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 gunkanjima-truth.com
記事には未払い賃金にもふれていますが、日韓では「完全かつ最終的」な解決をうたった請求権協定が締結されました。個人に対しての支払いは韓国側が「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲でとる」としています。補償を受け取れていない人がいるならば、それは韓国政府の責任。
ソウル新聞は、世界遺産登録をめざす「佐渡島の金山」について「長崎県端島を2015年に世界遺産に登録し、”強制労役を含むフルヒストリーを知る事ができる様に”というユネスコ勧告を無視した日本だ。幾ら包装したとしても強制労役がなされた鉱山が美しい筈がない」と難癖。 naver.me/Gs4qlYfj
特に広島の地元の新聞社。地域の報道機関として重い責任があるのではないのですか?過去の報道を見る限り偏った報道をしているように感じます。地元には当時を知る人々が大勢いたはずなのに、そうした声を拾うことなく、戦時中の実態を検証して客観的に報道しようとする姿勢がみられません。甚だ疑問。
三菱重工広島のいわゆる「朝鮮人徴用工問題」について、なぜ日本のマスコミは戦時中の実態をきちんと取材し、報道しないのでしょうか?なぜ、韓国側の被害証言や支援者の声ばかりを事実のように報道し、一次史料や当時を知る元社員らの声を黙殺するのでしょうか?これは端島炭坑と、全く同じ構図です。
三菱で「強制労働」させられたのに「給与をもらっていない」と裁判で証言した人々は、自ら逃亡し、職場を放棄した人たちではないかと推測します。そうした人々の給与も、三菱重工は広島法務局に供託しているのです。それは逃亡による「未受領」にすぎません。三菱重工が責められることはありません。
逃亡する半島応徴士が7割を超えても、最後まで責任を果たして朝鮮へ帰られた方もいらっしゃいました。敗戦と原爆で荒廃したなかでも、三菱重工は彼らに感謝の意を表し、ねぎらいの送別会を開きました。決して「奴隷のように」扱ったということはありません。それは様々な一次史料が証明しています。
三菱重工広島では、昭和20年8月30日に徴用又は動員の「解除式」が行われました。終戦まで逃亡せず残っていた半島応徴士は約720名、そのうち約400名が会社を離れることを申し出て給与を受け取り離任しました。残りの約320名は、最後の送別会にも出席して、給与と旅費、食料を渡されて故郷へ帰りました。
手記の寮母さんは大正6年生まれ。当時28歳。昭和19年10月~昭和20年9月30日まで半島応徴士の世話をするため勤務しました。この寮母さんは198人の半島応徴士を担当。病人が出た時も懸命に看病しました。日本語の話せる半島応徴士のリーダーが寮母さんに惚れて、一緒に半島へ帰ろうと誘われたそうです。
ちなみに寮母さんの手記はこちら。
半島応徴士は「ズル休み」する者も多く、生活面でも問題が多々あったことは寮母さんの手記からもよくわかります。当然、憲兵が監視して「強制労働」させているわけでもないので、どこかへ行って帰ってこない者が大勢いました。三菱重工は、それらをすべて「逃走」として処理せざるをえなかったのです。
三菱重工広島では、半島応徴士が就労してすぐに彼らの「逃走」が問題になりました。約2700人いた半島応徴士は、終戦時には7割以上が逃走してしまいました。しかし三菱重工では、半島応徴士が逃走しても探し出して連れ戻したりしませんでした。なぜなら彼らは、実質的には戦力にならなかったからです。
誤解されている方も多いのですが、三菱重工広島の半島応徴士は、工場の敷地内に閉じ込められて働いていたわけではありません。寮から徒歩で「広島機械製作所」もしくは「広島造船所」へ毎日通勤していたのです。別に鎖に繋がれていたわけではありません。仕事が終われば、普通に寄り道して帰るのです。
三菱重工広島の半島応徴士が生活した「工員合宿所」です。裁判では複数の人物が、寮は「有刺鉄線に囲まれて、監視塔も建っていた」と証言、事実認定されていますが、当時を知る三菱重工の元社員・奥田さんの証言や写真からは、そのような事実は全く認められません。寮は「強制収容所」ではありません。
三菱重工広島の半島応徴士の皆さんが、働いた後に汗を流した寮の新しいお風呂の写真も見つけました。(撮影:昭和19年5月15日)当時は内地出身者も朝鮮半島出身者も、日本人として同じ条件で受け入れられ、生活環境が整備された中で働きました。「強制収容所」や「奴隷労働」の実態は見当たりません。
当時「半島応徴士」たちを受け入れた企業は、三菱重工のみならず、様々な企業が「慰問」のイベントを開催しています。例えば日曹炭鉱天塩鉱業所では、朝鮮将棋、朝鮮楽器、ラジオ、新聞は常備、時には映画会や素人演芸会を開催していたことが「移入半島労務者取扱要綱」からわかります。
三菱重工広島では昭和19年12月16日15時半より約2時間「半島応徴士慰問演芸会」が西寮の食堂で開かれ、約千名の応徴士たちが歌と踊りを楽しみました。戦況が悪化する中でも半島応徴士に対する三菱重工の気遣いがよくわかる一次史料です。こうした実態は今まで殆ど知られていないのではないでしょうか。
海外発信について、ご質問をいただいているのでご案内します。「軍艦島の真実」ウェブサイトはアクセスした時点でブラウザの言語を読み取り、自動で日本語・英語・韓国語が表示されます。Youtubeはアカウントの言語設定により、表示が自動的に変わります。(日本語しかない映像は、日本語のまま表示)
手記には、女子挺身隊として全国から勤労動員された日本人未婚女性らの若い女工に囲まれて仕事をしたこと、賭け事で「一カ月、二カ月にあたる給料を、みんなすったとこぼす者も少なくなかった」といった同胞の日常、自身の日本人女性との恋愛についても当時の心境を交えながら詳しく記録されています。
「朝鮮人徴用工の手記」東洋工業で働いた鄭忠海さんが最初に家族に宛てた手紙。「まず安心してくれ。寄宿舎は新しく建てられたきれいな家で畳の部屋は広く清潔で、絹のような寝具が寒くないように準備されており、食事もほどよくしてくれているので暮らしていけそうだ」。三菱重工広島と似ていますね。
三菱重工広島の半島出身応徴士たちが寝泊まりした寮の部屋です。(撮影:昭和19年5月)建物は応徴士を迎えるための新築で、戦後は社員寮として使われ、一部は広島カープの合宿所としても活用されました。大勢での共同生活は窮屈だったとは思いますが、決して奴隷のような扱いではありませんでした。