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端島炭坑は「急傾斜採炭」で「うつ伏せで掘る」「腹這い」といった採炭姿勢はありえないとご説明しましたが、同様に「朝鮮人は五、六〇センチの低い、せまいところに入って、体を横にしてツルハシで手掘り」も採炭方法や炭層の構造、さらに大規模炭坑の保安上の観点からも端島炭坑では考えられません。
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ちなみに朝鮮人労務者の「溺死」について
昭和20年 0名
昭和19年 1名(22歳)
昭和18年 0名
昭和17年 0名
昭和16年 0名
昭和15年 0名
昭和14年 1名(27歳)
昭和13年 0名
徴用工被害者・徐正雨(ソ・ジョンウ)氏「高浜へ泳いで逃げようとして溺れ死んだ者など、四、五〇人」は一体なんだ?
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なお一次史料によれば、昭和18年~昭和20年の間で「溺死」した朝鮮人労務者は1名(22歳)でした。坑外施設の二坑口桟橋付近の地上約10mの炭車レールの上で石炭を満載した炭車を押していて、直下の海に転落して亡くなられたようです。3年間で「溺死」した朝鮮人の記録は、この事故以外にはありません。
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こうした一次史料から紐解く炭坑事故の犠牲者数を見る限り、当時の端島炭坑が全国の炭坑に比べて突出して犠牲者が多いとはいえず、ましてや朝鮮人労務者が組織的に差別され、抑圧され、特に危険な仕事を命じられ、虐待を受け、地獄のような奴隷労働を強いられたとする証拠はどこにも見当たりません。
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ちなみに昭和18年~昭和20年で端島炭坑で発生した最大の事故は、昭和19年7月12日午前2時に端島坑第5番下左6クロスで発生したガス突出事故です。犠牲者は日本人5名、朝鮮人0名。「鉱山保安年報」で確認できます。この事故の影響で、昭和19年の日本人の炭坑事故犠牲者は朝鮮人犠牲者の2倍になりました。
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徐氏は、端島抗内で「日本刀をさげた者」が命令したと荒唐無稽な証言をしたり、「落盤で月に四、五人は死んでいた」「仲間のうち、自殺した者や、高浜へ泳いで逃げようとして溺れ死んだ者など、四、五〇人」と、残されている「火葬認許証下附申請」と照合して明らかに多すぎる人数を語っています。
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反論することは良いのですが、根拠も示さず失礼な発言を繰り返されると、いよいよ対応に苦慮します。反論される方は、ご自身のお考えなどを具体的な根拠をお示しいただき、わかりやすくご説明していただきますようお願いいたします。皆様、建設的な議論のためにもご理解、ご協力をお願いします。 twitter.com/gunkantruth/st…
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韓国の国立日帝強制動員歴史館では、全くでたらめなCG映像を展示し、端島炭坑の「うつ伏せで掘る」「腹這い」の採炭場面を見せていますが、事実と違う証言に無理やり合わせて再現しているので構造的にも技術的にも破綻しています。これこそ結論ありきで、何の検証もされていないことを露呈しています。
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「急傾斜採炭」は急傾斜の炭層の内部を掘っていく採炭方法で、掘った石炭に代わりボタ(捨石)を埋め戻す作業をしていきます。上下の沿層坑道を結ぶ切羽が垂直になると傾斜がきつくなるため、斜めに掘り進んでいきます。炭層の厚みは3メートル以上あり「うつ伏せで掘る」「腹這い」等はありえません。
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軍艦島「強制連行」被害者の代表的な存在・徐正雨(ソ・ジョンウ)氏は、端島炭坑について「掘削場となると、うつ伏せで掘るしかない狭さ」と証言していますが、端島にそのような掘削場は存在せず、そもそも徐氏が採炭に関与したのか疑問です。戦時中、測量の仕事をしていた井上秀士さんの証言です。
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端島に居住していたと語るグ・ヨンチョル氏が、敗戦時に日本人全員が夜逃げして「島に残ったのは朝鮮人と沖縄人だけだった」と自身の半生を綴った本『神仏山』で語っています。あまりに不可解な証言です。詳しくはこちらの映像「グ・ヨンチョルとは何者なのか」をご覧下さい。
youtu.be/O8ZBH0EZQVo
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端島において朝鮮人労務者の引き揚げを見送った件について補足ですが、端島では終戦時に朝鮮人が島民に対して暴行や略奪、強姦を行ったり、暴動が起きたような事実はありません。他所であったから、端島でもあったと決めつける人、思い込む人がいますが、全くの誤解です。そのような記録はありません。
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飯場には、朝鮮人の親方がいて同胞を仕切っていました。朝鮮人のコミュニティで力を持たれた方で、三菱鉱業ともしっかり交渉し、日本人からも尊敬されていました。病院には朝鮮人の助手や看護師もいました。仕事を怠けた者が飯場で罰を受けたという話もありますが、端島全体のことではありません。
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端島には、同じ社宅に日本人も朝鮮人も一緒に暮らしており、(当時は同じ日本人ですから当然の事なのですが)近所づきあいもあり、学校でも机を並べて一緒に学び、朝鮮の人々は民族衣装を着て踊る日もあれば、朝鮮らしいお葬式も開かれました。坑内でも日本人と朝鮮人がチームを組んで働きました。
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元端島島民の加地英夫さんと井上秀士さんは、端島で暮らしていた朝鮮人労務者や家族らが終戦で島を離れる時、島民は総出で「さよなら」と手を振って、彼らの引き揚げを見送ったと証言しています。こうした事実は、端島で朝鮮人への虐待や差別があったと主張する新聞や本には全く取り上げられません。
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当時を知る端島島民からは、朝鮮人飯場をまとめていた朝鮮人の親方について、「立派な人だった」「尊敬されていた」といった声も聞かれます。当時の端島は、少なくとも、日本人が朝鮮人を差別し、一方的に虐待したという加害者と被害者の関係ではなかったと認識しています。
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なお、元端島島民の小佐々又俊さんが、戦時中の朝鮮人労務者たちの様子を語っています。同じ光景を目撃している人は複数いて、同様の証言をしています。端島に朝鮮人のコミュニティがあったことが想像できます。これも当時の端島を知る上での重要な証言です。
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@5TsjBQObgw8A7uh @Ttaro70285185 @cosmo9 @zgcLrmL0zAECRTi 虐待土工写真の件、ご投稿に気づかず遅くなりました。あの写真は旭川新聞に掲載されたものですが、同じ事件が大正15年9月9日小樽新聞でも報道され、被害者の氏名が公表されています。ご参考までに記事を載せておきます。また、あの写真がなぜ朝鮮人として扱われたのかも以前、私の方で調べました。
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