「批判であって表現規制ではない」的態度の危険性は、人類史の大反省で生まれた近代や科学や法律に基づかない感情論からの論は、感情的ゆえにたやすく批判から実際規制を求めだすことが予想されるし、現実にそうなっている。
創作者なので、入りは表現規制反対派なのだけど、その後いろいろと調べて、実際の調査と統計からの犯罪学や社会学や人類学、社会科学全般で表現を規制して良いことはない、悪いことは盛りだくさん、とあるので社会利益からの反対派となっている。
自著でも扱ったけど、アラブの春で、学生やインテリたちが独裁政権を倒して民主化→投票を導入するが、国民は宗教信徒が多く、宗教指導者が選出されて中世の宗教国家に逆行→軍人が「国家に仕えるが神には仕えない」と武力革命、軍事独裁政権に、とやる前から悪化する流れは覚えておくべき歴史事例。
草薙剛氏の公園での全裸前転事件、今考えると、ガード即死のフロムゲーのボスと戦っていた熟練プレイヤーである可能性が⋯⋯ないか。
武道が礼儀にうるさいのは、対戦相手や人への敬意を醸成しないと、殺人技術を持った乱暴者が世に放たれるからだそうな。ゲーマー業界はまだ師弟や先輩後輩関係での人格指導がなく、技術を持った乱暴者になりやすい。そういう環境や場でもきちんと振る舞える人は、元からそういう人である。 twitter.com/livedoornews/s…
人口減、少子化の議論はもう三十年、遅くても二十年前には終わっていて、結論は「今からできることはない」である。日本の少子高齢化社会の問題は、後者の人口割合が多すぎる超高齢化である点で、世界どころか人類史で最初に経験する国がどうするのかと見られている。
パリピ孔明はまだ見ていないのだけど、誰かが「三国時代の英雄と現代クラブ文化の組み合わせを見たい、という欲望は前もって地上人類にはなく、作者が提示して初めておもしろいと分かった」と言っていて、優れた創作ってだいたいそんな感じですわなとなる。
初めて見たジャンルや組み合わせだと「そうそうこんなのが欲しかった、と凡庸な予期ができない所からこんなおもしろさが来るのか」となる。 ⋯⋯なお、ゾンビシャーク等々は考えないものとする。
「我が社がやらない限り、地上で誰もやらない」のCOOMODELのEL005、JIHAD PONTIFEXこと1/6フル可動教皇。全身鎧に教典にメイスで、十字軍というより、HELLSINGに出ていました感。帽子にマントにロング十字架杖で教皇版にもできる。お爺さん顔もすげえ。ファンタジーRPGの僧侶や司祭っぽくてよし。
鎧を取れば教皇バージョンもできるのでしょうが、このシリーズ、本物によくあるように糸や紐を鎧の穴に通し、金具で留めていて、着脱に数時間かかる面倒さなので参考画像のみ。「十字架やキリスト像を飾る家はあっても、うちには1/6教皇がいる」と謎のマウントが取れるぞ。
「鬼滅の刃」のゲームに、ミニゲームで「下弦の鬼になって無惨様の女装パワハラ会議」をつけるべきだと思う。リズムに合わせてボタンを押し、内心を読まれる瞬間に違うことを考え、言葉尻を捉えられない選択肢をとにかく選んで、一秒でも寿命を延ばせ! 無惨「生き延びられるとは言っていない」
ニュースを見ると、25年前の神戸児童殺傷事件の被害者家族がインタビューを受けていた。加害者は年に一回謝罪の手紙を送ってきていたが、5年前から途絶えたとの報告だった。加害者が人格や精神の異常にしろ、刑務所を出たら謝罪も辞めるのだなとなる。
異常者による被害に対する医者や弁護士のアドバイスが「忘れなさい」になるのは、異常者にはそもそも反省する能力に心や脳の仕組みがなくて義務以外で謝罪はできず、本心からでもない。法的にもどうにもならず、道理としてはそうなる。だけど被害者本人、または遺族は納得できないし、できる訳もない。
外国の一部には、加害者と被害者と遺族を対面させて、反省と被害回復を勧める修復的司法というものもあったが、今では有害だとされて推奨されない。理由は、異常な犯罪者は被害者がまだ苦しんでいることを見て楽しんでしまうことが分かったから、である。
20年以上前の教育番組で、精神科医が小学生の女の子の絵に「手を背後に隠すのは恐れ、蛇と炎は暴力性~」みたいな診断をしていたが「難しい手を描かない構図にし、蛇と炎は描かれているのがKOFの八神庵だし、普通の女児ファンアート」でしかなく、文脈が分からないと見当外れ診断や意見が出る。
月刊ムーが陰謀論を防ぐかどうかは知らないのですが、今は廃止された読者文通欄で「転生した光の八戦士のうち四人が集まったので、残りを探しています」で次号で集まり、次々号で「戦士に偽物がいました。本物募集」「あいつらこそ偽物です。本物募集」とアレな人の集合と離散がスリリングだったよ。
たまには自著シリーズ話もしよう。ニドヴォルクさんの服が露出高めなのは、川を潜行してからの上陸地点が夜のゴーゼス経済特区だったので、風俗街を見て「あれが人間の女性衣装!」と勘違いしたため、というどーでも設定。作中で言う必要がないので省略された。
とある作家さんが言っていた「天才による芸術でも絵画や彫刻を手に入れるには数億から数百億円も必要だが、本は時代時代の天才の作品が数百円の文庫本で買える」に尽きる。古代ギリシャの哲人から近現代の思想や科学の巨人の業績が、数百円で見られるどころか所有できるってチートすぎる。
性的虐待の裁判でむしろ被害者が虚偽を言っており、名誉毀損だっと分かる判決を見る。相手を傷つけようと悪意から起こることもあるが、もっと厄介なのは、まったく事実ではないのに「本当にあった」と信じこんだ精神疾患や過誤記憶などの妄想から生まれる場合で、精神医学未満の分析で問題になった。
20世紀前半、フロイトが分析をすると統計を大きく超える被害者の告白が出てきて、妄想が指摘される。その後、20世紀後半に素人精神分析やカウンセリングで、家庭内やその他での被害を訴える人が大量に出て、訴訟が乱発された。
問題の根源にはなにかトラウマがある、という思いこみが当時のカウンセラーと患者にあり、薬物や催眠療法などで偽の被害記憶が出てきた。その後、カウンセラーらが存在しない被害記憶を作られた人とそれで被害を受けた人たちから訴訟を受けて大敗。過誤記憶として研究され、21世紀でほぼ消える。
名誉毀損を受けた人も大変だが、存在しない過誤記憶が出てきてしまった人も「どうしても本当にあったと思える」のに事実がないという現実と、過誤記憶で家族や周囲との関係が壊れたことに長く苦しむ。間違った治療ならまだしも、自然にこれが起こってしまう病気は恐ろしい。
実際、過誤記憶の軽いやつは誰にでも起こる。記憶が残らないはずの幼児期の鮮明な記憶や、昔の家族旅行での祖父母の話をしたら、その時には祖父母は死んでいて来ていない、みたいなやつと考えると分かりやすい。写真や聞いた話から脳内補完して、その思考がいつしか「本当にあったこと」みたいになる。
個人的体験だと「お爺ちゃんの膝に自分が座って、お爺ちゃんが頭を掻いて照れている」という記憶に、後々になって「なんで膝の上に座っている当人が、背後のお爺ちゃんの動作や表情が分かるのか、って、これ写真から作った過誤記憶だ」と分かった。
「幼児が背後の祖父を見上げるとあるはずの、下からの顔の構図」がなく「記憶にあるのは祖父の正面からの表情と動作」でカメラが切り替わっている。後者から前者の記憶があると捏造されたけど、齟齬に長らく気づかず、過誤記憶という概念を知った大人になって分かったのよ。無害な過誤だけど、ある。