片柳弘史(@hiroshisj)さんの人気ツイート(いいね順)

1201
死を前にしたとき、自分のために集めた財産や名誉は輝きを失いますが、誰かのために捧げた愛は、限りなく大切なものとして輝き続けます。死を前にしても輝きを失わないもの、私たちの人生に永遠の意味を与えるもの、それは愛なのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1202
宇部市、ときわ公園で出会った日本最小の鳥、キクイタダキ。体重わずか5グラムの小さな体で、一生懸命に生きています(•ө•)
1203
満開を迎えた満天星ツツジ。「満天星」と書いてドウダンと読みます。確かに、少し離れて見ると、夜空にちりばめられた星のようです(^^)
1204
教会の軒先に咲いた宿根の朝顔「天上の蒼」。吸い込まれるような青さです(^^)
1205
たとえうまくいかなくても、挑戦し続けること自体が成功であり、あきらめることは敗北。そう考えられる人は、どこまでも成長し、いつまでも輝き続けるでしょう。自分らしく生きて、納得のゆく人生を選ぶことができますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1206
教会の花壇に咲いた、上品な朱色の薔薇。「アヴェ・マリア」という品種です(^^)
1207
桜の花の蜜を、一輪一輪、丁寧に吸っているヒヨドリ。くちばしの先が花粉で黄色くなっています(•ө•)
1208
心が愛で満たされている限り、欲望が大きく成長する余地はありません。心に愛がなくなったとき、欲望が際限のない成長を始めるのです。欲望に心を乗っ取られてしまわないように、いつも心を愛で満たしていることができますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1209
どこかの国の誰かが愚かな行動をとったとき、「あの国の人間は愚かだ」という結論を出すべきではありません。人間は誰しも、ときに愚かな行動をとるもの。「人間は愚かだ」ということに気づき、愚かな者同士が共に生きる道を探せますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1210
他人を自分の思った通りにはできないと気づき、相手を変えようとするのを止めるとき「寄り添い」が始まります。誰かに寄り添うとは、その人を自分の思う道に誘導することではなく、その人が選ぶ道を、その人と共に歩むことなのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1211
一つの戦いが終わったとしても、戦う理由がなくならないかぎり、またすぐ別の戦いが起こるでしょう。戦う理由のない世界、すべての人が大切にされ、その人らしく幸せに生きられる世界を実現することができますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1212
教会の庭のスズメたち。まんまるな姿になっています(。・ө・。)
1213
教会の軒先に飾られたかわいらしいアジサイ。「ひな祭り」という品種だそうです(^^)
1214
見ごろを迎えたコスモス畑。色とりどりのコスモスが、さわやかな秋風に揺れています(^^)
1215
命は一つの壮大なリレー。バトンを受け取ったら、自分なりに精いっぱい最後まで駆け抜け、次の人にバトンを渡して去る。そして、今度は天国から、いまバトンを持って駆けている人を全力で応援するのです。命のリレーに終わりはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1216
開花を始めた八重桜。つい、桜餅を思い浮かべてしまいます(^^)
1217
腹を立てている人に、「腹を立てるな」と強く言えば、その人はますます腹を立てるでしょう。平和を作り出す人とは、相手が何に腹を立てているのかを素早く見抜き、その原因を手際よく取り去ることができる人のことなのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1218
教会の花壇に咲いた桔梗の花。上品で、涼しそうな紫色です(^^)
1219
教会のエントランスに飾られた、鉢植えのリンドウ。「敬老の日」を祝うのにぴったりの、落ち着いた美しさです(^^)
1220
次々と開花する、公園の池のスイレン。夜になると、眠るように花を閉じることから「睡蓮」と名付けられたそうです(^^)
1221
亡くなった大切な人がいる天の国は、時間から解放された永遠の世界。その人を思い出して祈り続ける限り、私たちの愛が古くなることはないし、消え去ることもありません。大切なのは忘れないこと、祈り続けることなのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1222
雨の中に咲いた白い彼岸花。この辺りでは、白い彼岸花もよく見かけます(^^)
1223
教会の畑のプチトマト。真っ赤に熟れて、栄養満点です(^O^)
1224
自分を信じるとは、今はまだ分からなかったとしても、自分の人生には必ず意味があると信じるということ。あきらめさえしなければ、道は必ず見つかると信じるということ。たとえ誰も信じてくれなくても、自分だけは自分を信じられますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
1225
見ごろを迎えた、教会の前の植え込みのキバナコスモス。少し涼しくなってきた風に、ゆらゆらと揺れています(^^)