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源義経らの謀叛に、後白河法皇及び院近臣の関与を疑う鎌倉方。院近臣・高階泰経は「法皇は止めたが義経が聞き入れず『宮中で死んでやる!』というので、やむを得ず院宣を発給した」と弁明する書状を送るが、これに対し鎌倉方は返書の中で後白河法皇を「日本第一の大天狗」と評した。
#鎌倉殿の13人
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北条政子が実朝のために書き写した和歌集。一番上に書かれているのは三浦(平)義村の歌ではないか?
山賤(やまがつ)の萱葺く軒の村時雨音せぬ松ぞさびしかりける
関東歌壇の先導役であった冷泉為相(阿仏尼の子)が編者とされる私撰集『拾遺風体和歌集』に義村の歌は二首選ばれている。
#鎌倉殿の13人
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岸辺露伴の愛犬「バキン」の名は曲亭馬琴からか。『南総里見八犬伝』の作者だものね。ちなみに岸辺露伴の名の元とされる幸田露伴は、幼い頃から曲亭馬琴を耽読していて、作家として名を成してからは馬琴の作品を評論し、あるいは校訂して世に送り出すなどしている。
#岸辺露伴は動かない
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源実朝は建保7(1219)年1月27日、夕方に降り出した雪が二尺あまり積もるなか、右大臣拝賀式のため鶴岡八幡宮に向かう。南門をくぐったのは酉の刻(午後6時の前後1時間)、参拝を済ませて退去する頃には恐らく戌の刻を過ぎていたのだろう。それだから「白犬=雪の戌の刻」なのか。
#鎌倉殿の13人
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平盛綱。北条氏御内人。長崎氏の祖。平資盛の子とするが、実際はよく分からない。尾藤景綱に変わり北条家の家令として泰時・経時・時頼3代の執権を助けた。鎌倉末期の北条家の内管領にして影の実力者・長崎円喜(高綱)は盛綱の曽孫とされる。鶴丸にこういう形で活躍の場を与えてきたか!
#鎌倉殿の13人
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実衣が頼全(全成の三男)からの文を見ながら「お寺の修行って大変なんですね。百壇大威徳法の業って」と尋ねようとしたら全成はもういなかった、というシーン。この百壇大威徳法とは寿永2年に後白河法皇が平氏討伐のために催した怨敵調伏の修法。頼全、京で何してる?(不穏大好き!)
#鎌倉殿の13人
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「吉信、吉信」と慕ってくれた幼い頃の家康(竹千代)を織田に奪われたことを悔やみ、その名を捨てて広次と名乗っていたから、どうしても家康は「広次」の名前が覚えられなかったのね。今度こそ家康を奪われまいとする広次、否、吉信。その身を呈して家康を救う。
#どうする家康
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なるほど「名刀の主」とは切れ者・梶原景時の持ち主のことなのか。いくら斬れる刀でも、持ち主の腕がなければ切れ味は生きない。また、名刀は持ち主を選ぶ。自らが生かされる主を求める。歌舞伎の『石切梶原』で景時が名刀の切れ味を偽ったように、偽わろうとも正しい主に。
#鎌倉殿の13人
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「さてさて、何を渡したのか?」と藤原兼子が貝合わせの貝を開いて見せる。昔、薬の容器として蛤などの貝殻を使用していた、ということは、何やら怪しげな薬でも渡したということか。
#鎌倉殿の13人
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子どもが独立して、今は二人暮らしの翁(稔)と媼(雪衣)の許へ、やってくる若者が桃太郎というのは、ここにまた「桃太郎」の話が挿入されるのか!と。そしていずれは鬼退治ならぬ実業団の野球で「日本一」を目指すと。 #カムカム
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信康の不行状は様々伝わるが、その中の一つが僧侶殺害。ある日、信康が鷹狩へゆく道すがら僧侶と出会ってしまった。狩猟の際、僧侶に会うと不猟となるとされるので、これに憤慨して僧侶を捕らえると、首に縄をかけて縊り殺してしまった(『松平記』)。のちにこれについては謝罪している。
#どうする家康
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「北条家は他の御家人より立場が上。だからこそ、慎み深くなければならない。」
義時に小さい頃から言い聞かせられた金剛が、のちに泰時になるのは納得だわ!
そしてこの後で、曾我兄弟を利用して北条追い落としと将軍擁立の両睨みをする比企能員を描くのはズルい。
#鎌倉殿の13人
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万太郎たちが編集をはじめた『植物学雑誌』。目次だけ出来たけど、実際に東京植物学会が発行した『植物学雑誌』1巻1号(明治20年2月15日発行)そのまま(著者名が役名に変わっているだけ)。大窪昭三郎(モデルは大久保三郎)の「本会略史」や、槙野万太郎の「日本産ひるむしろ 図入」も。 #朝ドラらんまん
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大泉さんがクランクアップのときにサプライズでオープニングテーマともにまとめ映像が流れる。演者が皆寄り集まって涙で送る。そんなことされたら、大泉さん涙もろいんだから泣く。「なんで野添さんとハグして泣かなくちゃならないの?」って言っていたけど、安達に送られて最高でしょ?
#鎌倉殿の13人
140
ピアノ売ってちょうだい
#歌わずに読めるか選手権
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スポンサーになってくれた「(株)たちばな」って、おはぎも作っている和菓子の会社なのね。あの定一さんに供えていた「たちばな」のおはぎはここの品物か。きっと岡山のたちばなで修業をしていた誰かが、復員して店を興し、全国に店を出すくらいの会社に育てたっていうことかもしれないな。#カムカム
142
尼将軍北条政子の「…そのご恩は山よりも高く、海よりも…」の演説をやりかけて止める。こんな大江広元の書いた型通りの言葉ではとどかないと。自らの言葉で腹を割って話そうとする。命を投げ出して鎌倉を守ろうとした義時を語り、鎌倉三代の恩を説く。一気に御家人達をまとめ上げた。
#鎌倉殿の13人
143
信長が「よく考えろ」と言って、家康に金平糖を四粒渡す。土産の約束は、信康と五徳姫、瀬名と亀姫にひと粒づつ。信長、よく分かっている。
#どうする家康
144
最後通牒を突きつけられて、信玄に何一つ勝るものがないという家康に、
「恐れながら殿、この家臣一同がおります」
と夏目広次が励ます。この言葉を広次に言わせるのって、すごくないですか?このあとのことを思えば、広次の言葉は重い。今の家康があるのは家臣の力あってこそなのよ。
#どうする家康
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「女の子に三線を教えなくても」
三線は17世紀以降、琉球王国の宮廷楽器として用いられ、士族や富裕層の男性の嗜みとされていました。時代が下って庶民が弾くようになっても、男性の楽器という意識が根強く残っていました。そのため、女性が弾くことは良しとされていませんでした。 #ちむどんどん
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スノーボードなどの近年オリンピックに採用された競技でよく見られる「最高のパフォーマンスを見せたり、果敢に攻めた選手に対して、国や所属など関係なく選手同士が惜しみない称賛をする」あの行為こそ、オリンピックの精神なんじゃないのかね?どこの国が何個メダル獲った云々だけじゃないのよ。
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@s_kajita いかに裾野が広いかで、その山の高さが決まる。それが学問だと思います。いくら一流大学が高いレベルの研究をしようと、それは今までの土台となる研究の積み重ねがあったから。そこがしっかりしていなければ、高みを目指すことなど到底かなわない。地味に見えて、この土台=裾野の存在こそ大切ですね。
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後鳥羽院が逆輿で隠岐に送られる時、文覚の亡霊が迎えにくる。建仁2(1202)年、文覚は佐渡より赦されて戻るが、神護寺別当職は失い、寺領は後鳥羽院に奪われていた。これに怒り、罵ったことで再び院により隠岐に流される。文覚は没するまで院が隠岐へ流されるよう呪ったという。
#鎌倉殿の13人
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はるかすみたつたの山の桜花おほつかなきをしる人のなさ
恋の歌を泰時に渡す実朝。泰時はこれを実朝の間違いと指摘する。実朝の気持ちは歌そのもので、間違いではなかったのに。改めて渡した歌が、
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも
実朝の荒々しく散った想い。
#鎌倉殿の13人
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殺生石は玉藻前(九尾狐)が逃げた那須の地で三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常と陰陽師・安部泰成により討伐されて石と化した。だが毒を発して人や動物を殺めたため殺生石と呼ばれた。至徳2(1385)年玄翁和尚によって打ち砕かれて各地に飛散したのだから、割れたところで九尾狐は現れないだろう。 twitter.com/Lily0727K/stat…