人の定めは甘んじて受け入れる。そういっていた頼朝が落馬する。「天が望んだ男」が天の望んだことを成したのちは、好きに生きることは許されないのか。やはり天が望んだように、この場を退かねばならないのか。天のなすことには抗えない。 #鎌倉殿の13人
頼朝の落馬が脳梗塞などによるしびれからきたものだとすれば、時政と話をしている途中で餅を詰まらせたのも、何かしらの前駆症状でうまく嚥下できなかったのかもしれない。もうあのときには症状が出ていたのではないか。 #鎌倉殿の13人
『吾妻鏡』は梶原景時が鎌倉の汚れ仕事を一手に引き受けて、一人悪者になっていた感があるけど、この善児がいることにより、景時の嫌らしさが希釈されるというか、「歴史書」の都合とか、書かれない隙間をこうやって埋めてくれているというか。三谷幸喜さんの見事さなのよね。 #鎌倉殿の13人
善児が範頼を殺害したあと、目撃した少女に近づいてゆく。このとき少女が持っていたのは仏前に供える樒(しきみ)なのではないか。大姫の逝去は建久8年7月14日。頼朝が命を下し、翌日に善児が実行したとすると7月15日の盆にあたる。この盆の風習は鎌倉時代から庶民に広まったとされる。 #鎌倉殿の13人
丹後局は言葉が強め 厳しい宮中生きたから生きたから 丹後局は眼力強め 辛い時代を見てたから見てたから 丹後局は当たりも強め 若い主上を守るから守るから (童謡『とんぼのめがね』のメロディにのせて) #鎌倉殿の13人
【妄想】範頼が善児に殺される前、茄子を井戸端に持ってくる。「次に何を植えようか」という範頼の言葉に「真桑瓜なんかどうだ」と答えて刺し殺す。「瓜の蔓に茄子はならぬ」瓜を植えたらそこからは瓜しか成らない。範頼は分かっていたのに、比企が「茄子になれる」とささやいたのよ。 #鎌倉殿の13人
比奈が言っていた「比企の紙」。比企郡小川町では江戸時代に紀州高野山の細川村から伝わった細川紙が作られていて名産品であった。しかし、それ以前の奈良平安の頃から、武蔵国男衾郡(現・小川町を含む)は京に紙を納めていた記録がある。現在も小川和紙は国の重要無形文化財である。 #鎌倉殿の13人
大姫を失って、すぐに三幡の入内の話をする。このように悪いことが続くのは誰かが呪詛しているためだと、範頼を殺す。頼朝が明らかにおかしくなっている。 #鎌倉殿の13人
大姫が亡くなるときに蝉の声がする。空蝉を集めていた義高の許へ蝉の声に送られて逝く大姫。 #鎌倉殿の13人
「源」と名乗ってよいのは鎌倉殿とそのご子息のみ。 これ、『吾妻鏡』にも書かれているのよね。大江広元がこの一文で責め立てているのも記されている。 #鎌倉殿の13人
曾我兄弟の事件より2ヶ月後、建久4年8月、頼朝の不興を買った範頼は弁明のため起請文を提出する。だが大江広元に「起請文で『源(範頼)』を称するのは分を過ぎている」と難癖をつけられ狼狽したという。広元は鎌倉の安定のため、危うい(または利用されそうな)人物は排除していったのね。 #鎌倉殿の13人
大河ドラマが史実と違う。まぁ、史実といっても同時代に残された記録であったり、少しあとに書かれた史書であったり。史実というより、『○○』という書物の記録ではこうなっている、だよね。だから大河ドラマは史実を追ったものではなく、その記録の隙間をうまく縫った脚本の妙を楽しむものだし。
頼朝(大泉洋さん)は予定表を(目が見えなくなってきているから)A4ではなくB4でほしいと。時政(坂東彌十郎さん)もB4でほしいけど、人の目があるときはA4でほしいと。坂東彌十郎さん、そういうところも時政っぽいな。 #100カメ #鎌倉殿の13人
「いつかこの手で鹿を仕留めたい」と万寿の虚空に放った矢が比企能員に当たる。ギャグシーンのようだけど、これは天が万寿の「今、仕留めるべき獲物」を指し示したのよね。仕留め損ねた獲物は鎌倉に帰り、不確定な「頼朝と万寿の死」の報を聞きつけて、己の野心から蒲殿を焚きつける。 #鎌倉殿の13人
万寿が成人し頼家となり、我が世の春を迎えた能員の抑えがたき欲望の渦に巻き込まれ、鎌倉殿の一族は崩壊してゆくのだから。今、仕留めよと天は示していたのよ。(実際は藍沢原にいたであろう能員を、ケガを理由に鎌倉に帰し、そこで訃報を聞き蒲殿を焚きつける役回りにする脚本の妙!) #鎌倉殿の13人
曾我兄弟の目的は父の仇討ちであり、工藤祐経殺害の先に頼朝の暗殺があった。ところが #鎌倉殿の13人 では本来の目的と結果が転倒する。真の目的は頼朝の暗殺にあり、父の仇討ちはそのカムフラージュとなっている。結果として祐経を殺害したことで『曾我物語』で語られる仇討ちが成立したことになる。
万寿、鎌倉殿が討たれた聞き、事後のことをしっかりと差配している。弓矢の腕が劣っていようが、その頭の回転の早さが今後の鎌倉には必要なのよ。 #鎌倉殿の13人
大江は泣いたことがない 頼朝消えた鎌倉で 甘い言葉にのっけられても 京に息子が与してもなびかなかった あまた御家人が揺れるのを 不思議な気持ちで見てたけど 私反逆するのは違うと感じてた #鎌倉殿の13人 twitter.com/JPNatArchives/…
山門派と寺門派の対立から天台座主を辞した慈円を演ずるのが「山寺宏一(山門と寺門を宏く一にする)」という名前なのも何かのご縁なのか。 #鎌倉殿の13人 #山寺宏一
「北条家は他の御家人より立場が上。だからこそ、慎み深くなければならない。」 義時に小さい頃から言い聞かせられた金剛が、のちに泰時になるのは納得だわ! そしてこの後で、曾我兄弟を利用して北条追い落としと将軍擁立の両睨みをする比企能員を描くのはズルい。 #鎌倉殿の13人
孤児たちの世話をするのが、同じ頃に妻を亡くした義時と仁田忠常なのが切ない。忠常の妻は文治3年7月、三島大社に参詣した際、洪水に遭って乗っていた小舟が転覆して亡くなった。実はその年の正月に忠常が危篤となり、三島大社に自らの命を縮めても夫を救ってほしいと願をかけていた。 #鎌倉殿の13人
土用に土を動かすこと、穴を掘ること、つまり耕作や作事といったことは禁忌とされた。陰陽五行説において、土用は土の気が盛んになるため、動かし犯すことを忌むようになった。因みに殺生も禁忌とされていたので、義経の殺害も忌むべきことであった。 #鎌倉殿の13人
八田知家が道路整備をしているのは、前年に知家の郎従が夜番をサボったので、鎌倉中の道路を作る罰を与えられたから(『吾妻鏡』文治四年五月二十日条)だろう。文治5年は6月18日が立秋であり、義経の首級が届いた6月13日は土用のさなかであった(土用中に土を動かすことは禁忌とされた)。 #鎌倉殿の13人