「(北条と畠山)どちらに味方する?」と時政に聞かれて、「決まってるでしょう。」と答える三浦義村。どちらに味方するとも言わない。こういうところがお上手ですな! #鎌倉殿の13人
「さてさて、何を渡したのか?」と藤原兼子が貝合わせの貝を開いて見せる。昔、薬の容器として蛤などの貝殻を使用していた、ということは、何やら怪しげな薬でも渡したということか。 #鎌倉殿の13人
【妄想】善児の家で三郎の巾着を見つける小四郎。善児はわざと分かるようにこの品を置いていたのだろう。それは彼なりの懺悔であり、兄の仇であることを告白して、おのが命を小四郎の手に委ねたのかもしれない。一幡への思いがひとえに功徳(修善)をなさせている。だから「修善寺」か。 #鎌倉殿の13人
#拾われた男 最終回は泣いて、泣いて、笑って、泣いて、泣いて、泣いて。もう、どれくらい泣かされたか分からない。泣きすぎて語彙力がもうゼロ。とにかく面白かった。
修善とは「善い行い」のこと、「善行を積む」こと。 「修禅寺」でなく、「修善寺」の副題がどれほど皮肉な内容なのよ。因縁と結果、因果応報。この因果の糸車は止められない。 #鎌倉殿の13人
源仲章は京においては後鳥羽上皇の近臣として勤める傍ら、鎌倉の御家人としての地位も得ていた。源実朝が将軍になると、坂東に学問を教授できる者がないため、実朝の侍読(学問を教える学者)として鎌倉に下った。藤原定家は仲章を「才名の誉はないが、百家九流に通ず」と評している。 #鎌倉殿の13人
りくの危うさって『吾妻鏡』にも出ていて、頼家危篤の頃、実衣(阿波局)が政子に「千幡が北条時政のもとで暮らしていると、りく(牧の方)が危害を加えようとするので、心配している」と伝えると、「私も心配」と義時や三浦義村に命じて、千幡を取り返してもらった。ってあるんだよね。 #鎌倉殿の13人
「赤がよく似合う」と言われた実衣が、全成を失ってから普段の衣服には赤を入れなくなる。赤は愛する人のためにつける色となったのだろう。その実衣が千幡の元服の儀には赤をまとう。晴れの舞台、乳母として千幡のために、またここにいたはずの全成のために、「勝負」の色で参列する。 #鎌倉殿の13人
善児が鞦韆(ブランコ)の綱を切る=この鞦韆の主(一幡)はもういない、を示しているのだろうな、と。本当にトウと水遊びしに行ったんじゃない?と現実から目を背けようとする視聴者に、「そんな甘いことはしないよ」と重いボディブローを食らわす脚本なんだな。 #鎌倉殿の13人
比企尼、善哉に呪いをかけた。 「北条は許してはならぬ」 頼家も平賀朝雅も「災いの種」だが、比企尼が善哉に囁いたこれが本当の「災いの種」だったのね。 #鎌倉殿の13人
比企尼、生きてたんだ!久安3(1147)年に生まれた頼朝の乳母を務めているんだらか、そのとき20歳だとしたって、77歳以上なのよ!実際、もっと上だろうから80代か90歳超えか?三浦義明(三浦義澄の父)の89歳といい、千葉常胤の84歳といい、長生きだね。(比企尼の没年はよく分かっていない) #鎌倉殿の13人
「一幡様、トウと水遊びいたしましょう」と言って、トウが一幡を連れ出す。その後、善児が鞦韆の綱を切る。視聴者は「水遊び」でこのあと何が起こるか分かっている。だがもしかしたらと淡い期待をもつ。それも善児が綱を切ることで、その望みすら消える。それにしてもあの善児の顔……。 #鎌倉殿の13人
慈円(演:山寺宏一)。九条兼実(演:田中直樹)の弟で、幼いときに青蓮院に入り、仁安2(1167)年天台座主・明雲について受戒。建久3(1192)年には頼朝と兼実の推挙により38歳の若さで天台座主となると、以後四度天台座主に就任。建仁3(1203)年には大僧正に任ぜられている。『愚管抄』の著者。 #鎌倉殿の13人
実衣が比企一族絶許なのに対し、今度は頼家が北条一族絶許になってしまった。因果は廻る糸車。 #鎌倉殿の13人
殺陣というのはスローにするとアラが見えやすい。だがここをあえてスローにして太刀筋であるとか、その容姿をしっかりみせる(魅せる)のは、やはり畠山重忠だからだろうな。無論、中の人がそれに耐えうる技術と容姿を併せ持っているからこその演出なのだけれども。 #鎌倉殿の13人 twitter.com/chilime/status…
この比企能員の変は『吾妻鏡』ではなくて『愚管抄』の記事をもとに描かれているのね。一幡の生死が違っているのよね。建仁3年9月2日、比企能員が謀殺されたあと、一幡を殺害するため軍勢を差し向けたら、母親が一幡を抱いて小御所を脱出、これを守っていた比企一族は壊滅している。 #鎌倉殿の13人
北条方は譲歩した、だが比企能員がこれを拒んだ。つまり、寄りつくような態度のない比企は、鎌倉に波風を立て、鎌倉殿に盾をつく不届き者。大義名分を立つことを他の宿老の前で示したのだ。義時、かなり黒くなってきた。 #鎌倉殿の13人
病の床にある頼家の後継者選び。 ・頼家の息子・一幡は6歳、外祖父は比企能員。 ・頼家の息子・善哉は4歳、乳母夫は三浦義村。 ・頼家の弟・千幡は12歳、北条政子の子であり、その妹(実衣)が乳母を務める。 比企と北条の綱引きで、両者綱切れて共倒れとなれば、三浦にワンチャンあり。 #鎌倉殿の13人
『吾妻鏡』では病としか書いていないが頼家は頼朝と同じ病としたのか。「飲水の病」は今でいう糖尿病とされる。日常的に大量に水を飲みたがるためこのように呼ばれた。糖尿病に罹ってから適切な治療を行わないと、脳梗塞や心筋梗塞、腎症や網膜症などの合併症が起こる可能性がある。 #鎌倉殿の13人
ムスカ役の寺田農さんはこの公開の時に43歳。 #天空の城ラピュタ のことはほとんど覚えておらず、周りの人から言われるので「すごい作品に出てたんだなぁ。」と感じるようになった、のだとか。
「オン アフル アフル サラサラ ソワカ」 全成が風雨が激しくなりはじめたときに唱えだしたのは深沙大将の真言。本来は疫病を除き、魔事を遠ざける神とされ、玄奘三蔵が天竺に向かう中途、砂漠の流砂から現れて、旋風や悪疫から守護した。全成は我が身の厄災を払おうとしたのだ。 #鎌倉殿の13人
頼家がやろうとしている「土地の再配分」は「御恩と奉公」を崩してしまうことになるのよね。宿老たちは何もただで本領安堵されたり、土地を与えられた訳ではない。戦があれば命惜しまず功を上げ、奉公したことに対し与えられた土地。そこを召し上げるって言われちゃ、そりゃ怒るよ。 #鎌倉殿の13人
いや、何度も戰場をくぐり抜けてきた仁田忠常に「来るならこい!」と言われたら、二世の若造たちでは腰引けるわな。 #鎌倉殿の13人
蹴鞠の後の宴で、酔っぱらった平知康が北条時連に「五郎は容姿といい、行いといい、抜群なのに名が品がない。時連の連は銭を貫くの『つら』だろう。早く名を変えた方がよい。将軍様、改名をお命じください」と言った。(『吾妻鏡』建仁二年六月廿五日条)その後、時連は名を時房に改める。 #鎌倉殿の13人
塁を「盗む」のと、走者を「刺す」のが上手い善児。ここぞというときに投入される、ワンポイント起用の選手。 #鎌倉殿甲子園