「さてさて、何を渡したのか?」と藤原兼子が貝合わせの貝を開いて見せる。昔、薬の容器として蛤などの貝殻を使用していた、ということは、何やら怪しげな薬でも渡したということか。 #鎌倉殿の13人
#鎌倉殿の13人 で「天叢雲剣」が海中に沈んで還らなかったことに対し、「レプリカでしょ?」的なことをよく見かける。確かに崇神天皇の御代に作られた天叢雲剣の「形代の剣」だったとされる。でも「形代」なので、そこに「天叢雲剣」の霊性というか神威が宿っている重要な剣であったことは間違いない。
八田知家が道路整備をしているのは、前年に知家の郎従が夜番をサボったので、鎌倉中の道路を作る罰を与えられたから(『吾妻鏡』文治四年五月二十日条)だろう。文治5年は6月18日が立秋であり、義経の首級が届いた6月13日は土用のさなかであった(土用中に土を動かすことは禁忌とされた)。 #鎌倉殿の13人
舞ちゃんが以前言った「短歌にすると一瞬が永遠になる」という言葉に対する貴司君の答えが、 目を凝らす見えない星を見るように一生かけて君を知りたい なんだね。ヤダ、ここでちゃんと相聞歌が出来ちゃっているんじゃない。 #舞いあがれ
人の目に触れないからといって、なかった、やっていなかった、というわけではない。るいの『英語会話』を聞き続けていたことも、ジョーがトランペットを吹けるか試していたことも、それは映像として出てこなかっただけで、そこにはなんとなく感じ取れる「何か」があった。 #カムカム
蹴鞠の後の宴で、酔っぱらった平知康が北条時連に「五郎は容姿といい、行いといい、抜群なのに名が品がない。時連の連は銭を貫くの『つら』だろう。早く名を変えた方がよい。将軍様、改名をお命じください」と言った。(『吾妻鏡』建仁二年六月廿五日条)その後、時連は名を時房に改める。 #鎌倉殿の13人
曾我兄弟の事件より2ヶ月後、建久4年8月、頼朝の不興を買った範頼は弁明のため起請文を提出する。だが大江広元に「起請文で『源(範頼)』を称するのは分を過ぎている」と難癖をつけられ狼狽したという。広元は鎌倉の安定のため、危うい(または利用されそうな)人物は排除していったのね。 #鎌倉殿の13人
尼御前が実朝にかけた言葉 「あなたも不安なことがあるかもしれない。でも父上もそうだったんです。励みにして。」 これがあったから、歩き巫女の言葉 「はるか昔から同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。この先もお前と同じことで悩むものがいることを忘れるな。」 が響く。 #鎌倉殿の13人
そして北条政子の願いで北条義時が手を回し、三浦義村が寺に匿ったこと、畠山重忠と和田義盛が追手を信濃に向かわせたことが裏目に出て、大姫が無事を祈って渡した手鞠で刀が抜けず、源義高の死を決定づけてしまう。義仲の嫡男が辿る宿命に、抗う助命活動が図らずも宿命に導く鬼脚本。 #鎌倉殿の13人
万太郎、大畑夫婦に仲人を頼む。この大畑義平のモデルとされる太田義二は神田錦町で石版印刷所を営んでおり、牧野富太郎博士に1年間、石版印刷のいろはを教えた人物。『牧野富太郎自叙伝』には奥さんとの馴れ初めが書かれていて、「仲人は石版印刷屋の親父」との記述がある。 #朝ドラらんまん
公吏相手に下手に出過ぎるわけでもなく、かと言って喧嘩を売るわけでもない。今の政府の方針と懐具合を理路整然と説明し、理解を示したうえでいうことは言う。そして東京大学という「権威」を利用して、相手に付け入る隙を与えない。万太郎の駆け引きの上手さが光る。 #朝ドラらんまん
『南総里見八犬伝』は曲亭馬琴の著作。文化11(1814)年からスタートして、28年かけて天保13(1842)年に完結した全98巻の物語。寿恵子にとっては40〜50年前の作品を愛し、「現八と信乃、尊い!」と言っているので、現代のオタクとやっていることは対して変わらないのよ。 #朝ドラらんまん
「家臣と国のためならば、己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ。」 於大の方はこの時点で、城主として、また国主としての覚悟を元康に即しているのね。己が欲(わがまま)により、どれほどの犠牲を払わねばならないか、それを考えなさいと。これはのちのち効いてくる言葉よね。 #どうする家康
『吾妻鏡』は梶原景時が鎌倉の汚れ仕事を一手に引き受けて、一人悪者になっていた感があるけど、この善児がいることにより、景時の嫌らしさが希釈されるというか、「歴史書」の都合とか、書かれない隙間をこうやって埋めてくれているというか。三谷幸喜さんの見事さなのよね。 #鎌倉殿の13人
善児が鞦韆(ブランコ)の綱を切る=この鞦韆の主(一幡)はもういない、を示しているのだろうな、と。本当にトウと水遊びしに行ったんじゃない?と現実から目を背けようとする視聴者に、「そんな甘いことはしないよ」と重いボディブローを食らわす脚本なんだな。 #鎌倉殿の13人
頼朝に「わしに何かあったときは頼家を頼む」と言われ、梶原景時は「身命を賭して」と宣言をする。その後に頼朝が落馬して命を危うくしてしまう。そこに「神仏の意思」を感じたのか、景時は頼家を全面的に支える。 #鎌倉殿の13人 では、みな言葉に縛られてゆく。
おはぎの包み紙が「御菓子司 たちばな」になっている。安子が再建した店というのが理想だけど、安子に所縁のある人が作ったのでも、出征したお弟子さんが帰ってきて看板をあげたにしても、あのおはぎを売ったお金を返しに来た少年が始めた店でも、「たちばな」が岡山にあるだけで涙が出る。#カムカム
塁を「盗む」のと、走者を「刺す」のが上手い善児。ここぞというときに投入される、ワンポイント起用の選手。 #鎌倉殿甲子園
「女の子に三線を教えなくても」 三線は17世紀以降、琉球王国の宮廷楽器として用いられ、士族や富裕層の男性の嗜みとされていました。時代が下って庶民が弾くようになっても、男性の楽器という意識が根強く残っていました。そのため、女性が弾くことは良しとされていませんでした。 #ちむどんどん
義時が見た白犬の夢。『吾妻鏡』(建保六年七月九日条)には、実朝の直衣始の夜、義時の夢に信仰していた薬師如来の眷属 戌神将が現れ「今年は無事、でも来年の拝賀は供奉をやめよ」と告げた。義時は「何いってんだがよく分からないけど、ありがたい」と、堂を建て薬師を祀ることにした。 #鎌倉殿の13人
美しいソプラノを聴きたいがために、少年の成長を止めるようなもの。 これは貴司君に向けての言葉でもあるが、舞ちゃんが貴司君と「親友のままでいようとする」ことにもかかっているのよね。同じでいることから、一つ前へ。 #舞いあがれ
善児が範頼を殺害したあと、目撃した少女に近づいてゆく。このとき少女が持っていたのは仏前に供える樒(しきみ)なのではないか。大姫の逝去は建久8年7月14日。頼朝が命を下し、翌日に善児が実行したとすると7月15日の盆にあたる。この盆の風習は鎌倉時代から庶民に広まったとされる。 #鎌倉殿の13人
この国名を表示したプラカード。雪を象っているという説明だったけど、中国で吉祥文とされる「盤長」をモチーフとしているのね。元はチベット仏教の吉祥文で、エンドレスノット、日本では宝結びといわれる模様。終わりがないことから、永久の繁栄、長寿を願う象徴。 #北京2022 #北京五輪開会式
りくの危うさって『吾妻鏡』にも出ていて、頼家危篤の頃、実衣(阿波局)が政子に「千幡が北条時政のもとで暮らしていると、りく(牧の方)が危害を加えようとするので、心配している」と伝えると、「私も心配」と義時や三浦義村に命じて、千幡を取り返してもらった。ってあるんだよね。 #鎌倉殿の13人