「自分が困窮していても助けて貰える気がしないので自分も助けない」という人間に対し、「貴方は道徳的に劣ってる!無償奉仕は当然!貴方は卑しい!」と言っても、それは「貴方は他者を助ける義務があるが他者に貴方を助ける義務はない」というジャイアン理論なので、相手は更に心を閉ざすだけというな
発達障害人間が社会不適合を起こす理由は、直接的障害特性以外にも「それによる軋轢で自己否定感が根付いてる」面も強いんだよな。様々な場面で失敗/叱責/拒絶された結果、「自分の存在は世界に歓迎されない」と学習してしまい、社会と関わる/良くしていく意欲や希望が完全に失われてしまうというな。
「努力は必ず報われる」「善人は救われる」みたいな世界観は、裏を返すと「報われていない者は努力不足」「救われない者は悪人」となるので、その世界観が強い人間ほど「貴方が不遇なのは正しくないからだ。正しくない事は不遇が証明してる」のおかしさに気付かず弱者に対し冷酷になってしまうというな
自己肯定感の低いコミュ障が「自分はコミュ障だ」と気付くと、自分の言動に自信がなくなり「人間関係は全て正解し続けないと詰む」的な強迫観念ができるんだよな。それ故に少しでも失敗すると全て台無し/間違ってたような絶望に陥って人間関係投げ出し、更に「ミス=詰み」が強まる悪循環があるというな
努力出来るか否か?は環境の問題も大きく、当然だけど人間が努力するのは「見返りが期待出来る場合のみ」なんだよな。それ故に報われる機会に乏しかったり、他者に成果を否定され過ぎると「自分は報われる事はない」と学習し、「報われないなら何もしない方がマシ」と合理的判断を下してしまうというな
コミュ障は往々にして「自分の言動がどの程度許されるか分からず怯えてる」事が原因なので、コミュ障を治す為には「自分の言動を許容されて安心感を得る」必要があるんだけど、それは換言すれば他者に迷惑をかける事でもあるので、思い遣りの強い人間ほどコミュ障を脱出出来ないジレンマがあるというな
不遇な人間が発揮した善意が「貴方のそれは優しさではなく弱さ」と否定される現象、実は精神面云々ではなく権力勾配の問題なんだよな。何故なら人間は優位になるほど、劣位の人間を悪と見做さすようになるから。虐められっ子はイジメが進むにつれて些細な落ち度を理由に殴られるようになる法則というな
セルフネグレクトになりやすい人間は往々にして完璧主義者なんだよな。完璧主義だからこそ何かしようとすると「完璧に出来ず苦しむ未来」が思い浮かんだり、少しでも失敗すると全てが駄目なように感じたりで「完璧に出来ないなら何もしない」との結論に達してしまい、傍目には怠惰な人間に映るというな
「虐めは今を乗り切ればなんとかなる。イジメっ子には罰が当たる」というのは、数々の縦断研究で否定されてるんだよな。例えば米国のコホート研究によれば小児期の「虐められる」は成人後も富・名声・健康にリスクを与え続けたが、「虐める」は特にリスクが無かったという…。 ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/P…
@rei10830349 この研究は「虐められっ子は虐め経験の有無自体ではなく、イジメを誘発するような属性が成人後の転機不良に繋がったのでは?」という視点からされていて、虐められっ子の家庭やメンタル問題等の交絡因子も評価されたんだけど、それでも「独立して予測因子たり得る」結果が出たという。
ADHDの「締め切りギリギリまでタスクを先延ばしてしまう」と、ASDの「些細な事が気になったり拘ったりしてしまう」と、どちらにもある「過集中」が組み合わさると、「もう時間がヤバイと分かっているのに変なところに集中してしまって終わりが見えない」という地獄が生まれるというな。
イジメや抑圧を受けた人間がホワイトな環境に移ると高確率で発症するのが「気を遣わせて申し訳ない病」なんだよな。それまで1方的に忖度を強要されてきたが故に、忖度されたりフラットに接せられると何かに失敗したかのような罪悪感が湧いて、粗末に扱われる方が落ち着くようになってしまうというな。
「自分のやりたい事が分からない」という人間、往々にして様々な抑圧により自分を押し☓す事が日常化してるんだよな。自分の意思を尊重して貰えた経験に乏しく、「これぐらいは許される」という安心感を剥奪されてるが故に、「自分を大事に」と言われても何をどうすればいいのか全く分からないというな
ADHD人間、締切がヤバくなると1夜漬け/過集中によって乗り越えてしまう場合が多いんだけど、その時の成功体験が鮮烈過ぎて「最悪1気にやればいいし」「あの時の達成感を」という慢心とスリルに脳を焼かれてしまい、時間ギリギリで大変な目に会う度に先延ばし癖が強化される逆転現象が起きがちというな
先延ばし癖のある人間がダラダラしてるのを見て「時間がある」「寛いでる」と判断するのは早計で、ギリギリで焦ってるからこそダラダラしか出来ない場合も多いんだよな。先延ばし癖のある人間、大体は時間切れによる精神不安を落ち着かせる為に時間を削って好きな事をしてしまう自爆装置があるというな
「モテる人間はモテる人間なりの苦しみがあるんだぞ!非モテは想像力が足りない!」的な話、実際にモテるようになった結果、「確かにモテる事による苦しみはあるが非モテのそれとは比べ物にならない」という事が分かり、想像力の足りない人間ほど他人に想像力を要求する法則に気付いてしまったな…。
自己肯定感の低いメンヘラは往々にして人間不信というよりも、「敵意や悪意を信じ過ぎる」状態なんだよな。「自分は嫌われる」という強固な世界観があるが故に、善意/愛情を向けられても信じられず不安になり、逆に敵意/悪意を向けられると認知と現実が1致して辛いけど何処かホッとしてしまうというな
ADHDとTwitterの相性は最悪で、Twitterは衝動のままに頭に浮かんでは消える思考を出力出来るし、ツィートは最大140文字なので飽きる前にサッと読み書き出来るし、確変入ってバズると報酬系が刺激されてドーパミン出るしで、ADHDにとってTwitterは言語を玉にしたパチンコのような中毒性があるというな。
「オタク卒業したら色々変わるよ」というのは順序が逆で、現実が変わったからこそ卒業出来るんだよな。単にオタクを辞めただけでは当然に現実は何も変わらないので、結局は「フィクションから癒やし慰め希望を摂取して現実を生きる糧にする」必要性に迫られ、オタクを再び始める羽目になるというな。
抑圧や虐待やイジメを受けた人間の「自分は排除される」という世界への不信感を払拭するには、自分を取り繕わずに他者と関わり「このぐらいは大丈夫」と安心感を得る必要があるんだよな。しかし当然それは不信感が強いほど困難であり、自己肯定感を取り戻す為の自己肯定感がないジレンマがあるというな
叱責に弱い人間を指して「甘やかされてきた」というのは間違いで、甘やかされなかったからこそ叱責されると「やはり自分は存在してはいけない」と自己否定感で頭真っ白になるんだよな。1方で充分に甘やかされた人間は叱責されても「それでも自分は大丈夫」と思えるので、タフに構えやすいというな。
自己肯定感とは「自分は例え目的や価値がなくても世界に存在していいんだ!」と思えることなので、自己肯定感の低い人間に「なんの為に生きてるの?」と質問すると高確率で「生きるに値する目的がない。自分は無価値だ。☓にたい」となってしまい、最悪の事態を招く危険性が高いので注意が必要というな
発達障害人間、往々にして過去の不器用さによる軋轢の数々で「人間に叱責/失望/嫌われたくない」という怯えに染まっており、頭の中は常に「失敗」への恐怖でいっぱいなので、「何をしたいの?将来の展望は?」的に自分の意思を聞かれても答えようがないんだよな。自己実現以前に安全欲求に飢えている。
教養の定義はロバート・フロストの「気分を害さず、また自信も失わずに、あらゆることに耳を傾ける能力のことである」というのが1番しっくりくるんだよな。そしてこの定義に従えば「教養のない人間は不快だ!馬鹿だ!黙るべきだ!」等とTwitterで言ってる人間は、その時点で教養がない事になるというな
陰キャと陽キャの違いはコミュ力ではなくて「世界に対する信頼感の有無」なんだよな。陰キャは「自分は存在を許されない」が根底にあるので、例えコミュ力を身に付けて陽キャのように振る舞えたとしても、常に「嫌われたら…」と怯えが付き纏ってしまい他者と関われば関わるほど色々消耗してくというな