「朝ご飯を食べる子は成績がいい」「ピアノを習ってる子は勉強出来る」的な言説、研究が進むにつれて「それらは単に実家の太さの基準であって行為自体は学力に関与しない」ことが明らかになったの、良い悪いは別にして学歴が事実上「生まれによる身分制度」として機能してる事を裏付けているというな。
ADHDの先延ばし癖対策tips ・「少しだけやる」と自分を騙して着手する ・身体をバタバタさせて心身を動くモードに切換える ・別のタスクをやりながらor終わった後に間髪入れず着手する いずれも「作業興奮」が鍵で、とりあえず動きさえすればドーパミンが分泌され謎の重力が大分緩和されるというな
ADHDの「大きな報酬には敏感に反応するが小さな報酬には反応が鈍る」的な性質の1番分かりやすい例が清掃で、ADHD人間は空間の普段使いや後片付けはやっても変化が乏しいが故に色々雑いけど、いざ掃除な整理を始めたら「綺麗な空間」という大きな報酬を手に入れるぞ!と気合いが入り徹底するというな。
コミュ障がコミュ障たる所以は「自分は嫌われる」という世界に対する怯え癖なんだよな。これがあるから「他者を不快にさせてはいけない」を意識し過ぎてギクシャクするわけであり、コミュ障の中にはイジメ等で世界に対する恐怖を埋め込まれるまでは、コミュ充陽キャだったケースもわりと多いというな。
コミュ障の人間、自分があまり話せなかったり盛り上がらなかった時は「黙りこくって雰囲気を悪くしなかったかな?」と不安になるけど、上手く話せたり盛り上がったりしても「喋り過ぎ&上がり過ぎて他の人間は実は引いてないだろうか?」と不安になり、結局は脳内反省会が開催されるバグがあるというな
助けを求められない人間、往々にして「これ以上他者に負担かけたり弱みを見せたら詰む」という綱渡り状態なので、如何に困った事があっても助けを求められない構造があるんだよな。結果、助けがなくても余裕はある人間ほど助けられ、助けが必要な人間ほど助けられないというジレンマが生まれるというな
助けを求められない人間は意地を張ってるとかじゃなく、「助けを求めても与えられない」事を学習してるだけなんだよな。その意味で「助けて!」と言える=助けて貰える事は1種の特権であり、それを自覚しないと「助けを求められず☓ぬ人間は無能自己責任」という地獄が生まれるというな #僕さみしいねん
自己肯定感を上げる簡単な方法が「感謝」で、実は人間は「感謝されること」だけでなく「感謝すること」によってもドーパミンが分泌され報酬系が刺激される事が明らかになっているんだよな。何より他人に感謝=他人を肯定出来るようになると、それと同じ要領を使い自分を認める事も出来てしまうというな
社会不適合人間には「気を遣われたいけど気を遣われると病む」というジレンマがあって、気を遣われっぱなしだと嫌でも「自分が負担になってる」事を実感し多大な引け目を覚えてしまうんだよな。それ故にメンヘラは自分を粗末にする相手/環境に「大切にされなくて安心する」と向かいがちになるというな
「嫌な事を嫌と言えない人間」は、臆病とか弱気とかじゃなくて「嫌な事を我慢するより人間関係の調整や軋轢の方が面倒で嫌だ」というケースもあり、この手の人間は許容量を超えると「もう何もかもが面倒だから人間関係自体を全て終わらせるしかない!」という方向に爆走するので注意が必要というな。
ADHDの先延ばし対策は「ちょっとだけ…と思いながらタスクに着手する」のが鉄板なんだけど、ちょっとだけ…のヤル気もでない場合は他のタスクに手をつけるのがお勧めな。このノウハウの肝は心身を動かし作業興奮を引き出す事なので、他のタスクに着手してヤル気が出てから本命に向かう事も可能というな
自己肯定感の低いコミュ障、根底に猛烈な自己否定があるから他人に話し掛けると「迷惑かけてない?」と感じるし、他人と1緒にいると「我慢させてない?」と感じてしまうしで、結果として「自分から相手を誘う」という営為に「相手に迷惑かけたうえに我慢を要求する犯罪」的な罪悪感を抱きがちというな
自己肯定感の低い人間が言う「友達がいない」は、往々にして正確には「自信を持って友達と断言出来る人間がいない」を指しているんだよな。自分が友達だと思いたい人間はいるものの、相手は自分を友達と思っているか確信が持てず、「友達はいる?」と聞かれたら言葉を濁すしかなくなってしまうというな
人間が努力する為には「努力は報われる」確信の他に「失敗しても大丈夫」という安心感が必要なんだよな。しかし親や周囲に甘えられなかったり虐められた人間は「失敗=終わり」が脳に叩き込まれ、自分を守る為の努力として「努力しない/意思・願望を持たない/挑戦しない」が習慣化してしまうというな。
「学力は実家の太さで決まる」と言うと、たまによく「実家が☓☓でも本人の努力次第で学力は向上出来る」的な反論が来るけど、残酷な事に「自分を信じ努力は報われると思えるか?」的な自己肯定感も実家の太さに影響される事が確認されているんだよな。努力出来るというのも1種の「特権」だというな。
何故ADHDは調べ物を始めると脱線しまくり本来の目的を果たせなくなってしまうのか?その謎を探るべく我々はインターネットで検索を開始したが…本筋ではないが気になる情報が…モヤモヤを放置すると効率落ちるし少しだけ調べてみよう…これも興味を惹かれるな…あれ?自分は元々何を調べてたんだっけ?
発達障害人間が多い趣味に関して、カナダで行われたASDと定型の興味・志向差研究によれば ・ASDが強く好むもの LEGO、機械、アニメ、ガジェット ・ASDがあまり好まないもの 有名人、凝った料理、写真 という傾向があり、意外にもスポーツは定型と差は殆ど無かったとのこと pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29095880/
「不遇を嘆いても仕方ないから努力しろ」的な言葉、自分に向ける分には良いんだけど、他者に向けると「貴方は努力不足だから不遇なのだ」という抑圧と無理解の言葉になってしまうんだよな。努力したうえで/しているのに不遇に追いやられてる…という可能性もある事に全く想像力が及んでないというな。
他者に頼るのが苦手な人間は往々にして「自分はいるだけで迷惑になる」という意識があって、傍目から見ればなんてこと無い頼みでも、当人視点では「只でさえ迷惑かけてるのに更に迷惑をかけたら…」と不安と罪悪感でいっぱいであり、他者に頼ること自体をある種の犯罪のように感じてしまってるというな
自己肯定感の低いメンヘラ、往々にして人間不信というより「人間のネガティブな部分だけを信じてしまう」状態なんだよな。人間から褒められたり好意を伝えられると嬉しいけど不安になり、人間から悪口や敵意を向けられると「やっぱりそうなんだ」と落ち込むが、同時に何処かホッとしてしまうというな。
ADHD人間の先延ばし癖、「やらなきゃ!」と思えば思うほど罪悪感と焦燥感でMPが削られ、ヤル気を編むだけのMPを捻出出来なくなるので、しばしば「手遅れかもしれないのが怖過ぎて確認/タスク着手を先延ばしてしまう」という傍から見ると完全に意味不明な状況に陥りがちになるというな。
自己肯定感の低いコミュ障、「自分は存在してはいけない」という自己否定感に苛まされているが故に、他者と関わること自体に罪悪感を覚えてしまうんだよな。結果、必要な報告連絡相談であれ「迷惑行為」として言い出せず、トラブルで罪悪感が更に増し、更に何も言えなくなる罠に陥りがちになるというな
新社会人の皆、実際に働いてみて真昼間からTwitterやってる社会人の「ヤバさ」に気付き始めたと思うけど、彼等社会不適合人間にとってTwitterは苦しい社会適合の中での息継ぎなので、それを止めても特にその分仕事にコミットする事はないし、息苦しさで逆に効率が落ちたりするので注意が必要というな。
結婚式を挙げたい願望はあったんだけど、いざ知り合いの結婚式に行ってみると、結婚式は「両親や親族との良好な関係!」「祝福してくれる沢山の友達/会社の仲間!」「輝かしい自分史!」みたいな人生の答え合わせである事が分かり、「あっこれ自分とは別世界だ」と完全に心が折れてしまったというな。
新社会人へオススメなのが「部下のマネジメント方法」「猿でも分かる人事評価」「駄目な新入社員の見分け方」的な本を読むこと。当然これらのノウハウは入社して出世して部下を持つまでは使う機会がないわけだけど、自分の上司にあたる人間達の思考回路や評価基準が分かり色々擬態しやすくなるというな