恋人関係になったことで柏木という大切な”友達”を失い貴司のかけがえなさを知った舞。あの別れは貴司への想いの深さを舞に実感させるためのエピソードだったんだろうし、ここにきて柏木が大いなる当て馬だったことがハッキリしたの、ジワジワくる。#舞いあがれ
「貴司くんとは友達でいたいねん。もし告白してしもたら今の関係には戻られへんやんか」 舞が貴司に対して事あるごとに「友達」を強調してたのは、何でも話せる幼馴染の関係を壊したくないからと知って嗚咽。舞を相手に告白させたら勝ちなものスゲー計算高い女と思ってた自分を殴りたい #舞いあがれ
幸せそうな人を見てもイライラしなくなったどころか、自分のことのように嬉しくなることも増えた。歳を食って、あらゆる「欲」が消えつつあるのかもしれない。解脱するのも時間の問題。
たとえば、若い頃は嫉妬心が渦巻くと「私はなんてイヤな人間なんだ」と自己嫌悪に陥ってたけど、最近は「ま、嫉妬くらいするよね。にんげんだもの」と思える。中年になってから、いい意味での「諦め」や「開き直り」ができるようになって、ずいぶん生きやすくなった。
若い女性の中には「歳を取ったら終わり」と思い込んでる人も多いと思うけれど、負け惜しみでもなんでもなく、ババアになったからこそ得られる楽しみもあるのであまり将来を悲観しないでほしい。
若い頃は私も「30過ぎたらババア」と恐怖に打ち震えてたけど、中年になった今は「30歳なんてピチピチギャルじゃん」としか思えない。つまり、10年後20年後の自分から見れば、現在の私は紛れもなくピチピチギャルであり、理論上一生ピチピチギャルでいられることがわかった。
「30過ぎたらババアだよね~」と自虐するアラサー女性がいるけれど、日常的に尿モレするようになってから出直してきてほしい。
引用やコメント欄に「わかる」「自分のことかと思った」などと共感が溢れていて「こんだけ自分に似た人が集まってるんだから、そりゃあツイッターの居心地がいいわけだわ」と妙に納得してしまった。
ネトフリで「IWGP」を観てる。20年以上前の作品なのに発達障害や性同一性障害の問題をキワモノ扱いせず適切に寄り添う形に仕上げていて驚いた。暴力や性描写がキツいので地上波では放送できないだろうけれど本当に素晴らしいし、なにより窪塚洋介&長瀬智也がめちゃくちゃカッコ良い。眼福が過ぎる。
大のコミュ障として「ママ友付き合い」が本当に恐怖だったんだけど、あれは期間限定の辛抱なので意外と楽。そもそも「ママ友」は「友達」ではないので、卒業と同時に躊躇なく関係を切れる。もう顔も名前も思い出せない。酔っぱらった勢いでうっかり出し入れしたバイト先の男くらい思い出せない。
落ち込むツイートには励ましの言葉を、喜びのツイートには祝福の言葉を掛けたりしたいんだけど「こんなリプ貰っても困るかな?」と持ち前のネガティブが発動して躊躇してしまう。そんな時にそっと「いいね」を押して何らかの気持ちを相手に伝えられるこの絶妙な距離感もツイッターの最高なところ
興味がなくなればフォローを外すだけで、そこに人格否定の意味は全くないんだけど、中にはそれを「縁を切られた」と解釈する人もいるっぽくて怖い。「フォロー」を友達登録かなんかだと思ってる可能性がある。
私の中で「フォロー」は「定期購読」であり、相互フォローも「たまたま読みたい者同士が出会った」程度にしか思ってないんだけど、ツイートが合わなくなった相互の人をリムーブしたら「フォロワーが増えて俺は用なしになったってことか」とバチ切れされて「oh…方向性の違い…」ってなったことがある。
よくよく考えると私は「友達が欲しい」と思ったことがない。気の合う人と出会えればラッキーだし、その関係を大切にしようとは思うけれど、わざわざ自分から新たな人間関係(往々にして煩わしい)を構築しようと思わない。
好きな時にアクセスして投稿も返事も強制されず、好きな人だけフォローして嫌いな人間は指先一つで自分の視界から消せるツイッターの世界、”ガッツリとした人間関係は煩わしいが、気が向いたときになんとなく関わっておきたいタイプ”には最適過ぎてやめられる気がしない。
ひとりで映画を観てひとりでちょっと豪華なランチをしてひとりで気の向くままいろんなお店を眺めて歩いて疲れたらちょっとこじゃれたカフェでひとりでお茶を飲みながらツイッターするのが至福の時間。
「つまんないと思ってたらどうしよう」「エンドロールが終わるまで席を立たなくても平気かな」「照明がついたときの一言目はなんて言おう」など、上映中も相手のことがいちいち気になって全然集中できないので、映画はいつもひとりで観に行きます。
「買い物や映画、焼き肉、果てはディズニーランドもひとりで行く。ひとりで行動するの大好き」と話すと「自立しててスゴい」と褒められることがあるけど、他人に必要以上に気を遣いすぎて疲れるのがイヤってのが大きいし、単に協調性がないだけだったりする。
私は長期的な人間関係を築くのが苦手で、できる限り他人とは関わらずに生きていきたいタイプなんだけれど、”その場限りの会話”が得意なせいでめちゃくちゃ社交的な人間と勘違いされがちなの、しんどい。
友達は自然に”できる”ものだと思ってるので「友達を作る」という表現に非常に違和感がある。粘土でこさえるのかよと思ってしまう。
私は毛モジャ族でいろんなとこがボーボーなのがコンプレックスなんだけど、大昔、夫に「背中に渦巻あるの、かわいいね」と褒められてそんな風に思ってくれる人もいるんだと嬉しく思ったことがある。「この渦巻がいいね」と君が言ったから、二月七日は背毛記念日。
指先のささくれとひび割れ、どんな高価なハンドクリームも効かなかったのに皮膚科で処方された保湿剤を使ったら一発でツルツルになった。やはり頼るべきは医療。
科博の「毒展」、2回目もめちゃくちゃ楽しかった。どのハチに刺されるのが一番痛いかを検証するために自ら実験台になって痛みを数値化したシュミット博士が最高なので見てほしい。著書のタイトルが「蜂と蟻に刺されてみた」なのもヤバいユーチューバーみがあって最高。
疲れてると味噌汁を作るのが億劫で適当なかき玉汁になりがちなんだけど、以前夫に「かき玉汁が食卓に出ると『お、今日はいっぱいいっぱいの日だな』とわかる」と言われて笑ってしまつた。
夫はゴリゴリ家事や育児をするタイプではないけど「今日は何もしたくねえ〜」とグッタリしてると味噌汁を作っておいてくれたり、睡眠不足で瀕死の時には「一人でゆっくり寝て」と子を公園に連れ出してくれたり、私の精神状態を安定させる方向に全振りするので家庭が平和に保たれてる。マジでありがたい