助けを求めればまだ何とでもなる時にSOSを出すことって大事よね。我慢して我慢して、もうどうにもならなくなってから声をあげるのとでは、立ち直る時の苦労が全く違うから。「甘えだ」「迷惑になる」ってためらう人もいるけど、「何とかなるうちに助けを求める」ってとても効率的で素晴らしいことだよ
異様に体がだるいな〜と思って熱を測ってみてもないし、薬を飲んでもダメだし、マッサージしても治らずで、悩んだあげく8時間寝たら嘘のように元気になってた事が何度もある。やはり睡眠こそ無料で最高の薬。なかなか不調が治らないといいつつ5~6時間しか寝てない人はとりあえず8時間寝てみてほしい。
「誰かに認められたい」と思っても、自分が自分を認めてあげなければ満たされないんだ。たとえ世界中に賞賛されても「自分なんて」と思えば苦しいし、誰かが特別ほめてくれなくても「自分は貴重だ」とわかっていれば自由に生きる。「自分も捨てたもんじゃないな」くらいからでも自分に歩み寄れたら。
泣きたいのに泣かず、笑いたくないのに笑ってごまかすことに慣れると、本当の感情が分からなくなる。あれ、本当に悲しいんだっけ?と自分の感情に鈍くなれば人の感情にも鈍くなってしまうし、感知されなくなった痛みは癒されないままになってしまう。心の底から泣くこと笑うことが大事な時もあるんだよ
自粛警察にマスク警察、結局のところ、相手が子供や女性だったり自分が勝てそうな対象を選んでいるあたり、何かにつけて他人を攻撃したいだけの人が正当化される場と勘違いしちゃってる感があるな。本当に止めたいなら一方的な攻撃じゃなくて誠実に注意すればいい話。唾や暴言を吐くのは正義じゃないよ
何かを好きだという時に何かをけなす必要なんてない。「××ちゃんは嫌いだけど○○ちゃんは好き」とか「××はブスだけど○○はかわいい」とか。そんなのほめられた側も嬉しくないし、否定された側もそれが好きな人も傷つけてしまうから。何かを否定しなくても純粋に好きなものを語れたらいいよね。
妊婦さんのお腹を蹴るのは言語道断だけど、そもそも思い通りにいかない相手を暴力で何とかしようとするのが間違ってるよ。マタハラの話を聞く度にゾッとするけど、妊婦さんって見るだけでも応援したくなったり微笑ましくなったりするもんじゃないのかな…当たり前に子育てを応援できる社会にしたいよね
自分が自分を責めているから、周りからも責められているように感じる。自分が誰かをバカにしているから、相手からもバカにされているように感じる。世界を透明に見れる人なんていなくて、皆自分というフィルターを通して世界を見ているんだ。自分がやさしくなれば、世界ももう少しやさしく見えるかもね
「今がダメだから変わろう」と思うと、なかなか変われないからつらいんだよね。変わりたいのに変われないからもどかしくて情けなくて。そんな時は「ダメだから変わろう」から「変わったらこう良くなるからやってみよう」に転換してみて。自分を否定してやろうとするより、自分のためにがんばれたら。
自分の過ちを認められない人って、きっと過去に間違ったことを否定された経験があるのよね。理由も聞かれず「なんてことをしたんだ!」とただ責められた人は失敗に臆病になるし、事情を受けとめて「次はこうしたらいいよ」と言えたら前を向ける。過ちは犯した側だけでなくて、出くわした側も大事だよね
夢を叶えた人の中で、途中諦めたいと思わなかった人はほとんどいない。誰にも反対されず、皆に応援されて成し遂げた人もほとんどいない。成功者の今だけを見る人は嫉妬するけれど、誰もが時には反対されて、上手くいかない時にも耐え忍んだから今があるんだよね。嫉妬するより努力を学ぶ方が糧になる。
知らない事は悪い事じゃない。分からない事に出会ったら、知ろうとすればそれでいいんだ。知らない事を認めず、知ろうともしない事が問題なんだ。知りもしないのに決めつけようとする事が問題なんだ。いくつになっても学び続ける人には成長に上限がない。知らない事をバカにする人は放っておけばいいよ
受け入れなくてもいいから受けとめるって大事だよね。相手の言っていることを丸々飲み込んで、自分を変えてしまう必要はない。でも、はなから相手の言葉をつっぱねて、相手を否定しようとする必要もない。相手の気持ちを「分かろうとする」ことから歩み寄れたらいいよね。
毎日気分次第で生きることはできないけれど、理論じゃわからない気分や直感も大事よね。なんとなくやだな、やりたくないな〜と思ってたことがやらなくて大正解だったり、大きな事故を避けることに繋がってたり。自分の感覚を押しつぶして生きるのって、やっぱりもったいないなと。繊細さも長所だよね。
完全な人はどこにもいないんだ。自分には足りないところがあるし、あの人にも足りないところがある。それは罪なんかじゃなくて、当たり前のことなんだ。大人になってもおじいちゃんになっても100歳になったって、皆足りないところがあって当たり前。自分や人の足りなさを認めて生きていけたらいいよね
「こうあるべき」っていう考え方が縛られているようでキツいなら「こうありたい」に転換してみたらいいよ。理想や目標を持つこと自体は悪いことじゃないし、何かに向かって努力できるのは素晴らしいこと。「こうでなきゃいけない」という否定じゃなくて「こうなれたら嬉しいから」って思えたらいいよね
好かれようとしてがんばることは、本当の自分とは違う自分を演じること。上手く演じて評価される時はいいけれど、それじゃあいつか疲れてしまう。自分じゃない自分が評価される度に虚しくなってしまう。好かれようとしなくたっていいんだ、自分の価値は誰かの評価で決まるものではないんだから。
誰かにクレームをつけたいならその人と同じことをやってみたらいい。スーパーの店員に口を出したいなら自分がやってみること、スポーツ選手に口を出したいなら自分も選手までのぼりつめること、アイドルなら同じだけファンを集めてみること。相手の努力も知らずに批判するのは場外のヤジにすぎないよね
寄り道のようで寄り道じゃない事って沢山あるんだなぁ。昔なんとなくやっていた事が思いがけないところで活かされたり、過去苦しかった経験が今同じようにつらい人の助けになったり、挫折した経験が次の挑戦のバネになったり。どんな過去も「あの時のおかげで」と意味を見つけるようになったらいいよね
肩の力が入りすぎると、かえって上手くいかないこともあるよね。「絶対に間違えないようにしよう!」と思うほど視野が狭くなって、見えるはずのものまで見えなくなって、しなくてもいいミスまで犯してしまうもの。大事な時こそ深呼吸、「大丈夫、間違っても死にはしないさ」と自分を後押ししてやれたら
失敗すれば、何が悪かったのかを学べる。次どうしたらいいのかヒントが見える。失敗は何もしないことに比べたらずっと素晴らしいことなんだ。何もしなければ残るものもないけれど、失敗は挑戦した分残るものがある。できなかった自分を責めるより、一歩踏み出してみた努力を認めてやれたらいいよね。
自分を一番責めているのは自分なんだ。何かやらかしちゃって、こんな失敗するのは世界で自分だけだなんて思ったりして、何も見えなくなって。でも世界に77億の人がいれば77億通りの失敗があるし、自分が思っているよりも周りはやさしかったりするものだ。落ち込んだ後はまた何食わぬ顔で歩き出せばいい
何かを相談された時に「それを言うなら私なんて」と返す人が減って、ひと言「そうだったんだね」って言えるようになれば、世界はもっとやさしくなると思うの。
子供の頃周りの大人に頼れない環境で生きてきた人は、大人になっても「頼る」という選択を持ちにくくなる。頼るのが苦手というのはまだいい方で、そもそも頼る事を思いつかなくなってしまうのが一番恐ろしい事。大人になってからでもいい、自分でどうにもならない時には「頼る」という選択を持てたら。
負わなくてもいい重荷は降ろしてしまうこと。完璧でなくてもいい、失敗してもいい、誰かの期待とか「こうあるべき」なんて理想とか、まとめて降ろしてしまってもいいんだ。押し潰されて動けなくなってしまうくらいなら、一旦置いといて前に進んでみたらいい。大事なものなら、また取りにきたらいいから