@dayukoume そもそも、イエローカ〜ド三枚なら、赤青黄色の信号機とは色の並びが異なる筈である。小梅氏はここで、「逆転クオリア」の問題を提示する。小梅氏は、三枚の「イエロー」の内二枚が、“他者にとって”の青や赤である可能性を示唆し、黄色のみで、「交通の信号機」が成立するのだ!と述べたのだ。挑戦作。
@dayukoume ヘーゲルは「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」と述べた。これは、哲学(梟)は、過ぎ去った時代を事後的に概括する事しか出来ぬ、という意である。埠頭(現世たる此岸)で哲学し、船(次の時代の比喩)を待つ小梅氏。だが、哲学は次の時代を哲学する事は出来ない。小梅氏は、黄昏に飛び立ち、溺死したのだ。
@dayukoume なんと小梅氏は、W杯をナショナルアイデンティティの強化装置であると指摘する。確かに、日本代表の応援経験を通じ、我々は「日本国民」である一体感を感じるであろう。小梅氏は、W杯を肯定しつつ、他国を蔑視する行き過ぎた民族主義(ブラックホール)に陥らぬよう我々に警鐘を鳴らしたのだ。大問題作。
@dayukoume ここでのゾウは、象ではない。そう、“像”である。ド・ブロスは、動物やモノそのものを、偶像として崇拝する未開民族を観察し、その崇拝をフェティシズム(呪物崇拝)と定義した。バッタそのものを、神たる“像”として信仰していた小梅氏だったが、その妄信に気付き、畜生を信仰していた事態を嘆いたのだ。
@dayukoume うまい棒は、一般に10円である。すると、小梅氏が無一文であるのが分かるが、実は小梅氏はここで、「ミニマリズム」を実践していたのだ。「最小限」に生きる為に、金銭の断捨離を実践した小梅氏であったが、うまい棒すら買えない事実に気付き、価値が貨幣に一元化される貨幣制度を大胆に非難したのだ。
@dayukoume 驚嘆の記号である「!」は、エクリチュールの領域にのみ現れる。それに対し元来宗教的シンボルであった卍は、今やデリダの述べる反覆可能性により、「まじ卍」としてパロールに於いて驚嘆を示す。小梅氏は、機械音声などでは表現し難い「!」を、卍によって話し言葉の領域で表現できると指摘したのだ。
@dayukoume ダーウィンに影響を受けたスペンサーが提唱した「適者生存」の概念を援用した一作。スペンサーは、生物個体が「生存闘争」を行うとし、そこに進化の原動力を見た。わかめ研究家でもある小梅氏は、「わかめは、他のわかめを“喰らう”」と比喩的に述べ、わかめの生存競争を見事に描き出したのだ。傑作。
@dayukoume 博物館に保存される物品は恐らく、「価値がある」とされる物品である。神秘主義思想に傾倒し、未来視の能力を手に入れた小梅氏は、「一万年後の価値観」から棄てられる自身のミイラを見て嘆き、博物館の仕事は、相対的な価値観から、凡ゆるモノを保存する事ではないか!?と博物学に疑義を呈したのだ。
@dayukoume 「不思議の国のアリス症候群」と呼ばれる病をご存知だろうか。これは、知覚された外界が、巨大に見えたり、自分自身が小さくなった錯覚が生じる病である。小梅氏は、ユクスキュルの環世界論を援用しながら、小さくなった我々にとって、🍦が螺旋階段である事を示し、アリス症候群の考察を行なったのだ。
@dayukoume 自販機の飲料は場所により値段が異なる。これは、事物の価値はその場所により、相対的に変わり得る事を経済的側面から示していると言える。事物の価値を価格に還元し、場所により変えるその恣意性に怒った小梅氏は、モノの価値は場所に拠らぬ普遍的なものなのだ!と普遍主義の立場から激怒したのだ。
@dayukoume 50センチの乳首とは如何なる事だろうか。実は小梅氏は、身体改造により乳首を拡張し、一般的には生活の場で用いられない乳首を「道具」としたのだ。小梅氏は、身体を拡張・改造し、本来道具に依存する行為を身体のみで行わんとする、「身体=道具」という新たな価値観を大胆にも示したのだ。挑戦作。
@dayukoume 太陽に水をかける。その行為に果たして意味はあるのだろうか。こうして、人生の行為に“意味”を見出そうとしていくと、日々の行為もまた無意味に思えてくるではないか。『シーシュポスの神話』にて人生の“不条理”を描いた哲学者カミュの影響を受けた小梅氏は、人生の無意味さを受け入れよと説いたのだ。
@dayukoume 嘗てのアメリカの黒人差別は凄まじいものであった。まっくろ黒助と黒人を揶揄する差別主義者と、黒人を見世物にする白人に「テレビに出ない!」と抗議する黒人達の当時の様子を鮮やかに描いた小梅氏は、差別の歴史を振り返り、「汝の隣人を愛せ」とするキリスト教の隣人問題へ立ち返れ!と説いたのだ。
@dayukoume そもそも、何故お墓の前でスリラーダンスをしたのだろう。14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパでは死の恐怖を前に人々が踊り続ける「死の舞踏」という意匠が流行した。墓参りの折、我々が皆、“死”の運命から逃れられぬ事実に改めて気付いた小梅氏は、発狂し、死の舞踏としてスリラーを舞ったのだ。
@dayukoume 狂乱した小梅氏は、そこで墓石に手をぶつけ、「痛み」を知覚する。そう、小梅氏は、「痛み」こそを生きている証左とし、改めて“生”を自覚したのであった。生を自覚し、自身を見失う事無く、力強く生きよ!と説く傑作。
@dayukoume 某金融会社の「むじんくん」は、機械による自動契約機である。さて、トマス・モアは「羊が人間を喰う」と述べ、農民の仕事が奪われる様を描いた。この一節を念頭に置いた小梅氏は、「むじんくん」を権力の象徴たるライオンに喩え、人々の仕事が権力者により機械に置換され奪われる危険性を訴えたのだ。
@dayukoume バウマンは現代社会を「液状化社会」とし、その流動性と不安定さを指摘した。さて、この「液状化社会」の前提として「個人のアトム化」が挙げられるが、小梅氏はこの点を強調し、現代を液状ではなく、「粉状」化社会だと述べる。小梅氏は、個人が容易に吹き飛んでしまう現代社会の脆さを描いたのだ。
@dayukoume 有名な倫理学の思考実験であるトロッコ問題についての論考。真っ直ぐ直進しても多くを殺し功利主義的道徳に反し、また曲折しても人を“自ら”殺す事となるジレンマに際した小梅氏は、「ジャンプする」という回答をするも、想定外の回答に対しトロッコがバグり、マグロと化してしまったのだ。駄作。
@dayukoume 人生とは何かを思索した小梅氏は、「出会いと別れ」という定義から脱却し、生の段階説を発表した。この段階説によれば、生の第一段階は赤ちゃんであり、ヒトは常に未熟かつ他者に依存しなければ生きられない“人間”(ヒトの間の存在者)であるという。更に、第2段階の「あの世」では…
@dayukoume (承前)…人々は必然的に死のプロセスを辿る事が示唆されており、ハイデガー哲学の影響が垣間見える。そして、「ゾンビ」では、ヒトが死した後、死人が「他者の心」の中で“生きる”のだと述べ、人間のゾンビ性(不死性)を唱えたアーレントの議論を発展させたのだ。挑戦作。
@dayukoume 異端児とは、即ち狂人である。人間理性に全面の信頼を寄せた嘗ての西洋社会では、狂気は排除され、“無かった事”にされた。だが、確かに、そこに“異端児”は“居た”のである。人間理性に疑義を投げ掛ける小梅氏は、狂気の存在を身を以て示し、哲学界の異端児として西洋哲学の伝統を破壊せんとするのだ。
@dayukoume 夏が終わり、巡り巡る四季。冷涼なるその季節は、食欲の秋か、芸術の秋か。郷愁を懐く人々を横目に、小梅氏は死神の足音を聞いていた。ハイデガー哲学の影響を多大に受けた小梅氏は、季節が巡る事は同時に自身の死期が近づいている事なのだと考え、逃れ得ぬ死に向き合う覚悟を決めたのだ。傑作。
@dayukoume 『もののけ姫』を視聴していた小梅氏は、アシタカの台詞を聞き、疑問符を浮かべた。─我々は一体何処から来たのだろうか─。“母の胎内”というのは確かに一つの解答ではあるが、では、我々は“生”を得る以前、一体どこに居たのだろう。“どこでもない“のであれば、何故我々は生きているのだろうか。傑作。
@dayukoume 自/他は、対立する概念と見做される事が多いが、果たしてそうなのだろうか。ベランダに現れた“何者か”は、その得体の知れなさから我々に恐怖を与える。そう、我々は他者が真に何を考えているか、絶対に知りようが無いのだ。小梅氏は体験を以って自/他の非対称性と、その得体の知れなさを指摘したのだ。
@dayukoume 「勤労が無い」という事は、奴隷らが全ての労働を担う古代ギリシャのポリス社会を示しており、文章に注釈を加えると、「(嘗ては知識階級にとって)勤労すら無かった!畜生共!」となる。小梅氏は、「勤労感謝の日」を、労働概念を普遍化するイデオロギー装置と指摘し、古代ギリシャに還れと訴えたのだ。