Rootport💰🍹🍑(@rootport)さんの人気ツイート(古い順)

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軍隊という巨大な組織の中で、命令違反も辞さない性格のマーヴェリックに居場所はあるのか?還暦を目前にして、どこに居場所を見つければいいのか? そういう「組織の中の個人」「組織VS個人」の葛藤(※Conflict)が、あの映画では重点的に描かれていた。ような気がする。
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古代~中世においては、哲学・数学・科学・宗教・音楽などの諸分野は分化しておらず、一つの学問でした。そこから分派・派生していった結果、現在ではすべて別々の学問分野だと見做されるようになりました。
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「数学は宗教の一つだ」「音楽は宗教の一つだ」……そういう考え方ができないこともないでしょうが、あまり一般的ではありません。私は極論ではなく、一般論の話をしています。「科学は宗教と同じだ」という主張は、「数学は宗教と同じだ」と主張するのと同じくらいの極論です。
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では、科学はいつ宗教から分化したのか? その最初の一撃は、17世紀の「科学革命」でした。地動説・天体観測・そしてニュートンの古典力学までの時代ですね。この時代の歴史で分かりやすい入門書として、ワインバーグ『科学の発見』がオススメです。 (画像出典) books.bunshun.jp/ud/book/num/97…
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『科学の発見』は、学部1~2年生向けの講義ノートをまとめる形式で書かれています。そのため、めちゃくちゃ読みやすい。中高生の夏休みの読書感想文にもオススメです。
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科学と宗教の分化の最後の一撃になったのは、19世紀後半、『種の起源』の出版がもたらした進化論争でした。この時代の歴史の分かりやすい入門書として、松永俊男『ダーウィンの時代』がオススメです。 (画像出典) unp.or.jp/ISBN/ISBN4-815…
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19世紀までの知識人は、ルネサンス的な万能人であることが理想とされており、あらゆることに精通しているべきだとされていました。だから雑誌『Nature』も最初期には芸術評を掲載したりしていたそうです。ところが歴史が下ると、研究者たちはお互いに専門外のことは理解しがたいと気づき始めます。
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そして専門分野ごとに「学会」が組織されるようになりました。科学と宗教が分化しただけでなく、科学の内側でも、専門分野ごとの分化が始まったわけです。
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このほか、科学史の通史を概観する本として、東京書籍『科学は歴史をどう変えてきたか』をオススメしたいです。学校教科書で有名な東京書籍ですね。こちらも平易で読みやすく、中高生でも読めると思います。 (画像出典) kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-97844…
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宗教と科学の似ている点として「世界の成り立ちを説明しようとする思想体系であること」が挙げられます。ただし、その説明の仕方に大きな違いがいくつかあります。思いつく限りに挙げてみると: ①命題の正しさを蓋然性で判断する。 ②実証主義・経験主義である。 ③機械論・唯物論である。
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①命題の正しさを蓋然性で判断する 科学では、ある仮説が「絶対に正しい」とは主張しません。現時点で見つかっている証拠と照らし合わせて、一番「もっともらしい」と主張します。これが科学と宗教の一番大きな違いです。大抵の宗教では、経典の言葉や教祖の言葉は「絶対に正しい」と見做されます。
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たとえば無神論者で進化論の熱烈な信奉者であるリチャード・ドーキンスですら、もしもカンブリア紀の地層からウサギの化石が出てきたら(そしてあらゆる年代測定を突破したら)進化論を捨てるつもりだと言っています。仮説を否定する証拠が見つかったら、その仮説をすぐに捨てる。それが科学です。
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(余談) 「すぐに捨てる」は言い過ぎました(※ご指摘感謝)。いつでも捨てる心構えが必要とされる、ぐらいの言い方にしましょうか。科学の世界で「正しい」とされる仮説は、宗教のような絶対的正しさを意味しません。「今のところ後続の研究者による追試に耐えている/否定されていない」だけです。
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(余談の余談) アインシュタインですら定常宇宙説を信じて「宇宙定数」を導入してしまったなんて逸話もあるわけで、科学者にとっても偏見や思い込みを捨てるのは難しいモノなのだと思います。科学者も人間なので。
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(本題) 「蓋然性」とは、もっともらしさのことです。「もっともらしさ」をカッコよく言い換えると「蓋然性」になります。この蓋然性の概念はいかに発達してきたのか?ジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』というそのものズバリな書籍があります。 (画像出典) msz.co.jp/book/detail/08…
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②実証主義・経験主義である。 これはもう、言葉通りですね。ある仮説が正しいかどうか、実験や観察で確かめてみよう!という態度です。逆に言えば、実験や観察で実証しようがないことは、科学では扱えない……とも言えるでしょう。
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「死んだお祖母ちゃんは天国に行けるの?」という質問に、科学では答えられません。現在の科学では、死後の世界も、それどころか「魂」の存在すらも、観察できないし実証のしようがないからです。このような観察も実験もできず、実証もできない疑問には、科学からは何も答えることができません。
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③機械論・唯物論である。 あなたがインターネットにどっぷりと浸かったオタクであれば「オッカムの剃刀」という言葉をどこかで聞いたことがあるでしょう。「ある事柄を説明するために、必要以上に多くを仮定するべきでない」という、14世紀の哲学者ウィリアム・オブ・オッカムの提唱した指針です。
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なお、「オッカムの剃刀」は、仮説の論理的正しさとは関係がありません。 「運動中の物体は慣性の法則に従って同じ運動を続ける」 「運動中の物体は慣性の法則〝という名の神の手に押されて〟運動を続ける」 上記二つの命題はどちらも論理的に間違っているわけではない。後者は無駄が多いだけです。
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世間では無神論者だと見做されがちなダーウィンですが、『自伝』の中で「自分は不可知論者だ」と述べているのです。彼は神を信じなくなったのではなく、「英国国教会の教えるような形での神」を信じられなくなっただけだったようです。
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宗教と科学の違いで、重要な点をもう一つ思い出しました。 ④ヒュームのギロチンを振るう。 これです。
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ヒュームのギロチンとは、「〝~である〟という命題からは推論によって〝~すべき〟とは主張できない」という考え方です。18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームによって提唱されました。 たとえばインターネットは核戦争に備えて発明されたもの〝である〟。でも、核戦争を〝すべき〟とは言えません。
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たとえば男が電車内で痴漢をするのは、男は性欲が強いもの〝である〟から〝しかたない〟と主張する人がいます。が、男がどういうもの〝である〟かと、その行動が道徳的に許されるかどうかには関係がありません。ヒトは空腹を覚えるもの〝である〟が、だからといって無銭飲食が許されないのと同じです。
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この世界のありようがどういうもの〝である〟かを、倫理道徳と結びつけない。これは、科学に特徴的な態度だと私は思います。宗教では、この2つを切り離さない場合が少なくない。お米の一粒一粒に仏様が宿っているもの〝である〟から、米を食べ残〝すべき〟ではない……のような主張をよく見かけます。
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「感染症の影響で死ぬ人が増えてはならない」という道徳的な規範がまずあり、そこに科学的知識が手助けをしているだけでしょう。 感染症で死ぬ人が増えても〝しかたない〟という道徳的判断をした国・地域はありました。それらの国・地域では、マスクや手洗いうがいが日本ほど広まらなかったようです。