Watanabe(@nabe1975)さんの人気ツイート(古い順)

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実際には、源三郎は今川氏真の人質として駿河に赴いており、武田の駿河侵攻の際に甲斐へ連行されて武田の人質となっている。 #どうする家康
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松平源三郎は甲斐から三河に脱出したが、雪山を踏破したため両足の指を凍傷で失った。また後に35歳の若さで病没したのは、この脱出行の心身の負担が相当なものであったことを物語る。 #どうする家康
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スパルタの教育。 ほぼ武田家。 #どうする家康
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「どうする家康」で西上作戦を決行する武田軍を「300」に例えると「やたら兵力が多いスパルタ軍」である。 #どうする家康
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ここまでモンスターのような武田家中を見せられ続けると、改めてこういう連中と同盟を結んで対等にやり合っていた太守様は偉大だったのだと思い知らされる。 #どうする家康
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某コメンテーター氏による「米作りをやめて小麦を作れ」に対して多くの方々が声を上げているのは、米という食物がただの栄養源ではなく、我々の生き方そのものに密着した存在だったからではないか。聖書の「日々の糧」はパンだが、米もまた同様に「日々の糧」なのだろう。
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「軍艦巻は日本海軍に軍艦が存在する以前はどういう名前だったのか」と調べてみると、誕生が昭和16年(1941年)と比較的新しい時代の創作寿司なのであった。銀座久兵衛で客の注文を受けて発明されたものだが、当時はゲテモノ扱いされたらしい。
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絶対に笑ってはいけない神君伊賀越えが見られる #雑な説明で好きな大河ドラマを紹介する
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自分は頭の中がハッピーセットなので、特定の時代を「暗黒時代」と定義する史観に懐疑的ではある。どういう時代でも悪いところや絶望はあった反面、楽しみや喜び、希望も存在していたはずなのである。
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ヴォルテールに「いかなる点においても神聖でもローマ的でもなく、ましてや帝国ですらない」と批評されてしまう神聖ローマ帝国ではあるが、「ローマ教会の信仰の下に諸民族が連合し皇帝が統治する国家」として考えれば、やはり理想化されたローマを志向した結果の一つと言える。
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「とてもつらい」で有名な後漢の霊帝は後世の評価が芳しくない皇帝ではあるものの、一方では学問を重んじて好奇心の強い一面も持っていたという。霊帝の治世は匈奴や鮮卑など異民族の侵攻が活発化した時代だったが、霊帝は遊牧民族の文化や習慣にも興味を抱いていたらしい。
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地震があるたび「人工地震」と喜んでいる人々を見て
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ローマのテルマエから諏訪湖にタイムスリップしてしまい、自分によく似た男とその配下の蛮行を見てドン引きするルシウス・モデストゥス。 #どうする家康
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SNSを眺めていると「瓶詰めした生野菜を数日持ち歩くジャーサラダ」や「手の常在菌で発酵させる酵素ジュース」などの生物兵器案件に遭遇するが、その後大流行することもなく沈静化しているところを見ると、ハマった人々は飽きたのではなく淘汰されてしまったのではないかという疑いを抱く。
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「令和と江戸時代、民主的だと思うのはどちらですか」という投票が流れてきた。
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英国王の戴冠式で用いられるレガリア。「エドワード王の椅子」には、かつてスコットランド王のレガリアであった「スクーンの石」が埋め込まれていたが、1996年にスコットランドへ返還されている。
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イングランドにおける戴冠式としては、デーン人を打ち破ったアルフレッド大王が872年に塗油され即位したと「アングロサクソン年代記」にあるのが最古のものである。現代にまで通じる戴冠式の要素は、973年にバース修道院で行われたエドガー平和王の戴冠式に遡ることができるという。
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英国王の戴冠式における聖職者の序列としては、カンタベリー大主教が筆頭となり、次いでヨーク大主教、ロンドン主教、ダラム主教、ウィンチェスター主教の順となる。
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欧州における戴冠式の塗油は、旧約聖書にあるダビデの油注ぎに由来する。塗油によって聖別された国王は、その時から神聖な力を発揮すると考えられた。塗油に使われる油はオリーブ油とされるが、過去にはバルサム、麝香油、アンバーグリス(クジラの腸から採取される脂肪)が用いられたこともある。
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実のところ、「蒼き狼と白き牝鹿」の海外版は既にオルドが「家族と時間を過ごす」という婉曲表現になっている。
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遼陽会戦でコサック騎兵と戦う武田騎馬軍団のイメージ #どうする家康
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今回から本多忠勝は面頬を着けているが、長篠合戦図屏風でも面頬姿の忠勝が描かれている。 #どうする家康
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なお、鳥居忠吉の爺様は武田信玄の西上作戦が始まる少し前、元亀3年3月25日に没している。 #どうする家康
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近年、武田軍が浜松城を通り過ぎた理由として浜名湖畔の堀江城を攻略し浜松城への物資補給を絶とうとしたという説が挙げられる。家康が不利と分かっていて出陣したのは武田の挑発に乗ったと考えられるが、同時に兵糧攻めを恐れたともいう。 #どうする家康
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三方ヶ原の合戦において、徳川軍は鶴翼の陣、武田軍は魚鱗の陣という定石から外れた陣形を敷いている。徳川軍は劣勢の兵力を大きく見せるためとされ、武田軍は徳川軍の中央を粉砕することで家康の首を狙っていたとされる。 #どうする家康