上記の話は津軽藩兵をベースに書いてます。 ちなみに増毛を守っていた秋田藩兵は、自生していたハマナスをお茶にして飲んだので壊血病には罹らなかったそうです。
@ilikemk23 専門薬学系ではないので詳しくはわかりませんが、参考文献1にはこういう記載があります
最近ハマってる動画は東大が出してる「世界史」の世界史 この導入部分だけでももうクソ面白い。 受験戦争に勝ち抜いて入ってきてこれ講義されたら痺れるわ (私はクソ田舎の大学だったのでちょっと羨ましい) ocw.u-tokyo.ac.jp/course_11348/
バブルの頃、過疎の町・島根県大田市仁摩町はどうにかして町をアピールしたかった。 だが地元が誇れるものは鳴き砂の浜くらい。 それなら世界一の砂時計でも作れないか? 前代未聞の大きさ。数々の困難があった。 だが、困難を乗り越え、3年の歳月をかけて完成。 ちなみに砂は山形県のを使っている
仁摩町の砂浜の砂は粒度が大きかった。 粒が大きいため、何十トンもの砂が必要となり非現実的だ。 そこで、日本で最も粒が細かい場所へ向かった。そこは旧日本軍が風船爆弾に搭載する用の砂時計の材料ともなった浜。実績は十分だった。 だが、そこはリゾート開発されており、砂がなかった。
結局無尽蔵に砂を採取できる山形県の地層に埋まっている砂にした。それをひたすらふるいにかけた。 砂の選定以外にも問題があった。 それは大きすぎるので、砂時計の上と下で温度が変わるため、物理法則に従い砂時計中の空気圧力が変わるというもの。 容器内の圧力を精密制御する機器を導入し解決。
さらに、砂時計の容器が国内で作れないという問題にも直面。 ドイツの職人の力を借りることになるのだが、ドイツ人には巨大砂時計を本気で作るのか訝しむ。 ふるさと創生事業という日本の制度を不思議がりながらもなんとか説得。 ちなみに砂が流れる場所(オリフィス)は日本の職人の技で解決した。
こうして完成した砂時計は砂暦と名付けられ、サンドミュージアムに設置。 後に、漫画やドラマ、映画の舞台になるなど、大田市仁摩町を代表する施設として成長。 2016年にはギネスにも認定された。 完成から32年。砂時計は現在も、町の風景の一部として時を刻んでいる #にいがたさくらの小話 その390
栃木県鹿沼市。 江戸時代から続く麻の産地で、今でも日本一だ。 麻は縄文時代から衣服や布、漁労用の網、宗教的行事など日本人に親しまれた素材。 麻を大麻と呼ぶのは明治時代からで、外国の麻と区別する必要があったから。 なお現在国内で生産されている品種には幻覚成分がほぼ入っていない。
島根県石見地方。 ここには民俗芸能の石見神楽がある。 元々は一般的な神事として舞われていたのだが、時代や地区によって様々に変化し、全体として芸術性が高いものへと進化している。 なぜ石見で進化したのか? これには石見の地域性が関わってくる。 要するに、田舎が連なっているからだ。
江戸前期、領内を調査していた津軽のサムライは困惑した。 「土の中から謎の焼き物が出てきたんだが?」 何だコレは?訳がわからん。 とりあえずそう日記に記した。 現在の世界遺産·亀ヶ岡遺跡である。 この情報が都会に伝わると愛好家たちがこぞってこの土器を集め、海外にまで渡った土器もある。
江戸時代は平和な時代だったので、珍品コレクターが沢山いた。 『南総里見八犬伝』を書いた売れっ子作家の曲亭馬琴もその一人だった。 彼らは絵や書だけには飽き足らず、様々な物を収集し、仲間同士で古い物を愛で合う会『耽奇会』という会合を開いていた。 縄文の美や神秘に惹かれたのだろう。
津軽藩士たちも、珍品コレクターの情熱を察知していた。 「コイツが何なのかはよくわからんけど、江戸に持っていけば売れる」 彼らは参勤交代の際に手土産として土器を持っていった。 地元人達も、適当に掘り起こしてサムライに売り渡した。 乱掘された土器は完成品だけでも数千にのぼるという。
戊辰戦争の頃、石川県加賀市にあった大聖寺藩には新政府から弾薬供出が命ぜられた。 だが弾薬を買うカネはない。 そこで手を染めたのがニセ金製造。 銀を溶かし不純物を混ぜ、メッキを施す。 出来栄えは完璧だったが、担当者は思った。 「新しすぎて怪しまれる。温泉に浸けて使用した感を出そう」
小さいとはいえ大聖寺藩は加賀百万石の支藩。 芸術を重んじる藩の中には、金属細工が上手い下級藩士が居た。 彼は金銀の何たるかを熟知しており、商人や協力者を仰げるネットワークも持っていた。 ちなみに浸けた温泉は、現在の山代温泉である。 これにより大阪や新潟等の本場の商人さえも騙せた。
この時期、どの藩も多かれ少なかれ似たような偽造工作はしていた。 だが、大聖寺藩の贋金は群を抜いていた。 「大聖寺の小梅」と渾名がつくほど人気の銀貨だった。 作った贋金を基で元手に琵琶湖に蒸気船を導入するなど、独自の近代化を推し進めていた大聖寺藩だが、他藩からのやっかみを受ける。
贋金作りに関わった人々は多い。 武士だけでなく商人達も大勢居た。 製造担当は全ての人々へ罪が波及しないように切腹して責任を取った。 罪の波及を恐れたため、大規模な事件にも関わらず史料があまり残されていない。 贋金を作った洞穴は現在も残されている。 #にいがたさくらの小話 その66改
俵。 古来から、米だけでなく、麦、塩、海産物、肥料等あらゆるものを梱包してきたものだ。 だが明治初期、俵の作り方は雑で、中のものが溢れたり、俵自体が破損するものも多かった。 更に大きさが一定ではないため、場所場所で検査が必要となり不便だった。 この米俵の改良に生涯をかけた人間がいた
江戸時代までの米は、藩により厳しく管理されていた。 大事な年貢だからだ。 各藩毎に標準を定め、ある程度の米俵の規格化がなされていた。 しかし、年貢が金納に変わると管理がなくなり、売買する者たちに委ねられ、次第に安価な梱包方法に変わっていく。 函館で廻船業を営む遠藤吉平はこれを憂いた
彼は俵で大損害を出していた。 蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。 江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。 荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。 案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
悔しい。 その思いを俵の改良に向け、政府へ建白書も送った。 商工会にも送った。 政府は重要性を理解してくれたが、実際に俵を作るのは生産者だ。 そこで、知り合いの生産者に自ら改良した俵を持ち込み、依頼。 実際に売ってみると、俵づくりのコストは上がるが、それ以上の高値で取引された。
イケる。 彼は確信したが、俵は全国で作られるもの。 必要性を理解してくれなければ動いてはくれない。 そこで、全国の商工会議所や内国博覧会等で自ら改良した俵を発表。また、出来の悪い俵を博覧会で産地を明記した上で晒した。 また、粗雑な俵の梱包は買い取らないよう商業団体への根回しも行う
梱包とは、商品の価値をも向上させる物。 それにいち早く気づき、生涯を賭して人々に伝えたことに彼の功績はある。 ちなみに現在、米俵の内容量は60kg(4斗)だが、これはこのときの運動の中で、次第に統一されたもので、今の米袋(30kg)にもつながっている。 #にいがたさくらの小話 その392
北陸の冬には欠かせない消雪パイプは偶然から生まれた 昭和30年代の冬の新潟県長岡市 道路工事中に不具合で地下水が湧き出てしまうことに始まる。 天気は雪だが、地下水が出た箇所だけ雪がない。 地元住民は気づいた。地下水は雪を解かせるということに。 そして消雪パイプの技術開発が始まった。
最初は鉄パイプに穴を開けて地下水を通しただけの単純なものだったが、威力は強力だった。 会社の私道で使われて実証され、公道にも採用される。 昭和38年の豪雪でその効果を見せつけると、北陸地域や山陰を中心に普及していく。 ちなみに北陸より北の東北だと地下水が凍ってしまうので使えない。