非常に疲れている時には、自分にとって大切だと信じていた事柄に対しても、まったく関心を向けられなくなることがあります。それで今まで大切だと思っていたのは錯覚であったと感じ絶望してしまうようです。しかし疲れている時には疲れに向き合い、疲れを思い、他の事は他の時に思えばよいとも思います
若い時に人間関係でよく犯した間違いで、「この人は味方」「この人は敵」と決めてしまうということがあったと思います。味方といっても最終的には裏切るものですし、敵といっても共存し協力することが現実には必要で、人間関係は秒単位で変化する流動的なものだということになかなか気づかなかったです
一通の脅迫メールが届きました。私が使っているデバイスのカメラをハックして、私の恥ずかしい行為が映っているビデオを作ったといいます。ウォレットに1700ドル送金しろとかビットコインで払えとか難しくて全然わかりません。私が恥ずかしいことをしている動画がばらまかれるかもしれなくてこわいです
私は30歳を過ぎてから少しずつ、自分がどれほど愚かな人間なのかを考えるようになりました。10代、20代を振り返って、その時にやっていたすべてのことが間違っていたように感じました。しかし今の自分を振り返ってみると、誰でも理解していることをようやく理解できるようになっただけみたいです
Javaで「当たっても外れてもチャカ持ってくる丁半博打」を作ってみました
生まれてこなければならず、死んでいかなければならないのがこの世界だと思います。生まれてくることが未来を作り、私たちはたとえ死の床にあっても未来を求め続けると思います。過去の記憶にさまよって苦しみながらも、死ぬまで私たちは未来を見つめ、未来に希望を探し求める心を背負うのだと思います
先日助けていただいたヤモリです twitter.com/siro__0906/sta…
大人用の幼稚園を作ってほしいと思っています。可愛い通園服を着て黄色いバスに乗って通うのです。お歌とかお絵描きとかお遊戯をするのです。
直面している問題に対してスマートな解決法を提案することが好きな人もいます。ツイッター上でも社会問題に対して「こうすればいいじゃないか」などと言う人々がいます。しかしそうした提案はセリフとして見栄えがよいだけで、現実的でないことが多いと思います。現実はもっとグダグダな物だと思います
人との関係が続いている間は対立や駆け引きがつきまとい、決して心の奥底を述べることはありません。完全な別れとなったとき初めて一人の人間のかけがえのなさが思い知らされます。しかしその時にはもう二度と会うことがありません。この地上での事はすべて葛藤と失望を免れません。 いつか別の世界で
私を含めて世の中の普通の人々は、周りの人間たちの言動をうかがって「これくらいのことを言っておけば無難だろう」という発想で物を言うものです。自分が本心から考えていることを不特定多数に向けて率直に言ってしまうような人は、変わった人と扱われ、避けられたり迫害を受けたりしやすいと思います
おやすみなさい
子供のとき戦隊ヒーロー物語や冒険活劇で主人公やヒロインが囚われの身になって辱めを受けるシーンにはドキドキしたものです。囚われの身と辱めの物語には不思議な甘美さがあって、ちょっと後ろめたい気持ちを抱きながらも、つい憧れてしまいます。
お店でアパレルを買ってその場で着たいけれどハサミを持ってない時に、素手でタグファスナーを切る方法
何かを練習したり学んだりしている時、以前に理解し認識したはずの基本的なルールや教訓をいつの間にか忘れて迷走を続けた挙句に再び思い出すことがありますが、これはまったく無駄な繰り返しなのでしょうか。一度忘れて迷走したことには理由があり、再び思い出したことには新たな意味がないでしょうか
美しく楽しくかけがえのない物が社会の濁流にのまれて消えていくのを眺める時、何となく胸が張り裂けるようなかんじがあり、目の周りがこわばって涙も出ませんが、人は濁流に身を任せて行く所まで行くしかなく、固くなった心はいつかはほどけて涙を流す時も来るでしょう。生と死は運命だと思っています
人生は長い長い怖い夢のようです。子供の頃に自分を取り巻いていた世界はいつの間にかどこにもなくなって、 無数の人肉が使役され廃棄されていくだけの冷たくて暗い大きな工場のような中をずっとさまよっています。早くここから抜け出して、思い出せないふるさとの温かい世界に戻りたくて泣いています
今まで読書をするのは何かを獲得するためだと考えていましたが、むしろ頭の中を空にして鎮めるためかもしれません。ワンパターンの有害な想念にとりつかれて空回りを続ける頭を違う文脈に導き、あまり自分に媚びない地味な情報の流れを野菜のように噛み砕く作業を通して落ち着かせる。ツイッターはダメ