児玉美月|Mizuki Kodama(@tal0408mi)さんの人気ツイート(新しい順)

📚寄稿📚 『ELLE』にて"レズビアン映画"特集記事の文章と選定を担当しました。今年公開の新作映画から、数々観てきたなかで今言及したい旧作まで選んでいます。ほぼ劇場か配信で鑑賞できる映画ばかりなので、良質な作品探しのガイドにもぜひご一読いただければ嬉しいです。 elle.com/jp/culture/mov…
"レズビアン映画"の特集記事が、某媒体から近いうちウェブ上に出ます。 なんだか心許ない感情に独りさいなまれたままで書きあげたばかりの結びの文章を、ひっそりとここに置いておきたいと思います。
女性を描く映画が増えたからといって、それは必ずしも映画の領域における女性の人権が向上したことを意味しない。画面上/表面上のリプレゼンテーションが単に増えるだけでは、内部のこうした負担や皺寄せを結局は女性が被らなければならなくなる。
女性の問題を描く映画であるにもかかわらず、書くのも撮るのも決裁を握るのも全て男性で、女性側が男性側に説明し理解を促すコストをかけなければならない不均衡な製作状況が見聞きしている限りでもあまりに多い。それなら何故はなから男性のポジションに女性がつけないのか。news.yahoo.co.jp/articles/9a85e…
件のこの投稿における文意は、「映画に罪はないか/あるか」といった議論にはない。あくまで、「映画に罪はない」という言葉が免罪符のように機能し続けることによって、性暴力が横行する業界の構造を温存してしまう/しまってきた問題そのものにある。
日本の新作映画に関する性加害の記事。「映画に罪はない」という言葉が免罪符のように機能し続けてしまう内は変わらない。 (記事中にも「被害者は名前を見ただけでフラッシュバックする」とあるように、監督名を伏せて顔写真が載っているサムネイルも落として投稿します) bunshun.jp/articles/-/525…
大阪アジアン映画祭で上映される香港映画の『はじめて好きになった人』、女性同士の親密な関係を描いた作品らしく観たい。 oaff.jp/2022/ja/progra…
日本映画において「笑いをとる」描写の多くがセクシズム、レイシズム、エイジズムなどの差別的思想と密接に絡んでいることは否定しようがない。受容側が「そんなの笑えねぇよ」と厳格な姿勢をとって批判し続けていくしかないのかもしれないが、なぜ自国の映画を観るのにそんな苦行を強いられるのか。
主人公の相手が女性だったとしたら、「男女のベッドシーン、必要なの?」と書いていたとは到底思えない。
「週刊文春」で『MONSOON/モンスーン』に対して「男同士のベッドシーン、必要なの?」と書いている評者がいた。わざわざ「男同士の」とつけて。「その登場人物をLGBTにする必要ある?」論もそうだけどマイノリティになった瞬間に必要/不要の審判が始まるこの不均衡な現象はいつ終わるのかなと思う。 twitter.com/tal0408mi/stat…
レズビアン映画『Deux(原題)』こと『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』が、4月8日(金)公開とのことで情報解禁されました。 deux-movie.com twitter.com/tal0408mi/stat…
『ベイビーわるきゅーれ』で阪元裕吾監督が「“制服”と“恋愛”は排除する」と意図した箇所がまさにで、クィア界隈でこの映画について話したとき、高校生くらいの女性を描いてるのにフェティッシュ化された制服、(特に異性との)恋愛、それから親の存在が希薄なのが良いと話した。 lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/c…
2/26公開『チェチェンへようこそーゲイの粛清ー』チェチェンで横行する性的マイノリティへの弾圧を追ったドキュメンタリー。匿名を担保しつつ彼らの人間性を損なわないよう施されているダブルフェイス技術。それは存在を消され、声を奪われてきたマイノリティの歴史に加担しない意思の表れでもあった。
性的マイノリティを描く映画を伝える側が、(おそらく大抵の場合)「差別がなくなってほしい」という感情を伝えようとするときに「言葉がなくなってほしい」という表現を選択することが、どんな脅威や抑圧に繋がり得るかを、一度立ち止まって再考してくれることを願う。 twitter.com/tal0408mi/stat…
これについて現状わたしは何の迷いもなく、性暴力の含まれる映画に関して公的な宣伝上においては、トリガーアラートを必須にすべきだと考えています。 その性暴力部分がたとえ映画の「ネタバレ」的な要素となって… 続きは質問箱へ #Peing #質問箱 peing.net/ja/qs/11264013…
📚寄稿📚 1/7公開の韓国映画『ユンヒへ』の劇場用パンフレットに、「雪どけに追いつかれない早さで」と題した作品評が掲載されています。私の文章は、日本の「レズビアン映画(史)」とも交差させながら、日本と韓国の女性たちの想いが架橋しゆくことを願いながら書いたものです。分かち合えますように。
#松本まりか24時間生テレビ でふくだももこ監督の撮ったドラマ(6話目)が配信されています。松本さんの友達がレズビアンの女の子で二人のやりとりが可愛らしいドラマになってます。「シスヘテロしかいない世界をもう撮らない」と宣言してから有言実行までのスピード感が凄い。 abema.tv/video/episode/…
深田晃司監督が参加している表現の現場調査団による報告が出ました。映画の領域に関しては「審査員については男性80%、女性20%と男性が多勢を占め、男性主観による評価が積年常態化している状況が明らかになった。受賞者の統計を見ると、男性85%、女性15%とさらに差は開く」 tokyoartbeat.com/articles/-/hyo…
少なくともいち映画観客としていつも通っているヒューマントラストシネマに何も知らずに行って、でかでかとキム・ギドクのポスターが垂れ下がっているのを見たら、傷つき、様々な記憶がフラッシュバックするのは想像に容易い。せめて性被害の当事者が潜在的にかなり多いということは知っていてほしい。
映画業界において、あらゆる形でこうして日本の性暴力に対する認識の甘さが顕在化する。この件も、『最後の決闘裁判』で複数の評論家や映画監督から性被害を軽視するような問題の所在を理解していない評が出てしまったことと地続きではないと言えないと思う。
「いったい何者だったのでしょうか」ではなく「何者だったのか」を興行側は説明する義務があると思う。私は八月にキネ旬で、韓国映画史の記事で彼の名を挙げなかった某雑誌と、訃報の際の日本における追悼を批判する文章を書いた。彼の名と彼の犯したことは併記すべきでは。 ttcg.jp/human_yurakuch…
キム・ギドク特集上映を強行する東京テアトルは性犯罪についてどんな見解を有しているのか。同映画館に通う被害に遭われた観客の方が不意打ちで目にしてしまったら、彼の犯したことを知らぬまま観た観客がのちに知り深い傷を負ってしまったら。安心と安全を保障すべき映画館が二次加害に無頓着すぎる。
トラン・アン・ユンの『ノルウェイの森』に出演した菊池凛子に「映画の中で泣く時と実際の人生で泣く時、映画の中で泣く時の方が、本当のように感じる。そんな私って怪物?」と問いかけられた監督は、「君と僕はアーティストだ。表現者にとって演じることは、生きることよりも本物なんだよ」と答えた。
「ウォシャウスキー姉妹はSFやサイバーパンク、ディストピアといったジャンルを通じて、トランスの経験による美学に基づく新たな映画の枠組みを構築しました。今こそ最も成功したトランスの映画監督として大衆文化におけるウォシャウスキー姉妹の功績を分析するべき時」 note.com/k18/n/nefb61ce…
2021年でさえそんな日本映画が何本も公開されてしまう。これまでそういった種の「ネタバレ」を供給してきた作り手、享受してきた受け手は、一度立ち止まって考えてみてほしい。そんな「ネタバレ」が成立していること自体がおかしいこと。