51
1184年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 21歳
北条政子 27歳
北条時政 46歳
源 頼朝 37歳
源 義経 25歳
木曽義仲 30歳
木曽義高 11歳
千葉常胤 66歳
畠山重忠 20歳
梶原景時 44歳
平 宗盛 37歳
和田義盛 37歳
大江広元 36歳
丹後局 33歳
後白河法皇 57歳
#鎌倉殿の13人
52
『甲陽軍鑑』の記述や武田家侍医の残した書状によると、武田信玄は「膈(かく)」という持病を患っていたという。これは現代医学でいう胃癌・食道癌など消化器系統の癌にあたるとされる。#どうする家康
53
榊原康政は酒井忠次の叔父の家来、つまり元康からすれば陪臣(家来の家来)であり、その身分は低く貧しかったが、康政はその才知と学問、そして武勇を元康から認められ小姓に大抜擢されていた。
#どうする家康
54
朝倉義景の嫡男阿君丸は永禄11年6月25日、7歳にて急逝した。当時から毒殺の噂があったが真相は不明である。義景は愛息の死を大いに嘆き、政務を放棄して引きこもりのような生活を送ったという。朝倉家崩壊の最初のきっかけとなった事件である。#麒麟がくる
55
1217年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 54歳
北条政子 60歳
三浦義村 49歳
北条泰時 34歳
北条時房 44歳
三善康信 77歳
大江広元 69歳
後鳥羽上皇 37歳
慈円 62歳
源 実朝 25歳
千世 24歳
藤原兼子 62歳
公暁 17歳
三浦胤義 32歳
北条朝時 24歳
#鎌倉殿の13人
56
多くの松平家家臣がそうであったように、本多正信も熱烈な一向宗の門徒であった。一揆軍の軍師であり、また自ら何度となく家康の生命を狙ったという。正信の弟の本多正重も兄と共に一揆軍に参加し戦っている。#どうする家康
57
58
59
60
61
1204年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 41歳
北条政子 47歳
北条時政 66歳
八田知家 62歳
北条泰時 21歳
北条時房 29歳
和田義盛 57歳
三善康信 64歳
畠山重忠 40歳
大江広元 56歳
後鳥羽上皇 24歳
九条兼実 55歳
慈円 49歳
源 実朝 12歳
藤原兼子 49歳
#鎌倉殿の13人
63
65
『三河物語』によると平岩親吉は信康の身代わりとして切腹を申し出たが、家康は許さなかったという。しかし責任を感じた親吉は傅役の職を辞し、謹慎したという。
#どうする家康
66
1203年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 40歳
北条政子 46歳
北条時政 65歳
八田知家 61歳
北条泰時 20歳
北条時房 28歳
和田義盛 56歳
三善康信 63歳
畠山重忠 39歳
大江広元 55歳
後鳥羽上皇 23歳
慈円 48歳
仁田忠常 36歳
源 頼家 21歳
千幡 11歳
#鎌倉殿の13人
67
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
徳川家康は滅亡した武田家の血筋が絶える事を惜しみ、生き残った武田勝頼の娘に婿を世話してやった。
#どうする家康
68
織田信長は当初武田勝頼の事を「甲州の信玄が病死した。その後は続くまい」と侮っていたが、後にその武勇と軍略を知って考えを改め、「日本にかくれなき弓取」と評価したという。#どうする家康
69
高天神城陥落は武田勝頼にとって長篠の敗戦以上の大ダメージとなった。城の守備兵の大半が武田家に従属していた各地の国衆たちであり、これを見殺しにした事で勝頼の求心力は一気に低下した。以降家臣や国衆らの離反が相次ぎ、武田家は崩壊への坂道を転げ落ちていく事になる。
#どうする家康
70
1199年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 36歳
北条政子 42歳
北条時政 61歳
源 頼朝 52歳
八田知家 57歳
北条頼時(泰時) 16歳
北条時連 24歳
和田義盛 52歳
阿野全成 46歳
三善康信 59歳
畠山重忠 35歳
梶原景時 59歳
大江広元 51歳
三浦義澄 72歳
#鎌倉殿の13人
71
これまでの通説では信長は家康に瀬名と信康の処断を要求したとされてきたが、事件当時の資料である太田牛一の『安土日記』によると信長は「家康の思い通りにせよ」と返答したという。あくまでも徳川家の内部事情によるもの、という体裁を取ったものである。
#どうする家康
72
73
74
75
#何年たっても忘れられない大河ドラマ
「青天を衝け」
全く期待していなかったので、ある意味虚を突かれたような良作だった。渋沢栄一という馴染みの浅い人物を演じきった #吉沢亮 氏の熱演と、徳川慶喜の評価を一変させた #草彅剛 氏のしなやかな好演が印象的。