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山田八蔵は大岡らの陰謀を密告した功により500石の加増を得たという。彼の屋敷のあった三河国柿碕村(現・愛知県安城市柿碕町南屋敷)の屋敷跡には彼の墓とされる塚が残されている。
#どうする家康
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1576年 主要人物年齢一覧(満年齢)
徳川家康 33歳
瀬名 36歳
織田信長 42歳
於大の方 48歳
於愛の方 24歳
酒井忠次 49歳
石川数正 42歳
鳥居元忠 37歳
本多忠勝 28歳
榊原康政 28歳
松平信康 17歳
井伊万千代 15歳
穴山信君 35歳
今川氏真 38歳
武田勝頼 30歳
#どうする家康
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承久の乱で後鳥羽上皇方となった者の中には、実朝正室・千世(西八条禅尼)の兄たちもいた。千世は兄たちの助命を嘆願、尼将軍政子は嘆願を受け入れ兄たちは助命された。政子と千世は一緒に寺に参詣するなど関係は良好で、この関係の良さが物を言ったといえよう。
#鎌倉殿の13人
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月代(さかやき)という髪型は昔から存在し、以前は戦の時だけ兜の中の蒸れ防止の為剃っていた。戦が100年以上続いた戦国期、具体的には信玄・謙信・信長らが活躍した頃に男子の日常的な髪型として定着していった。剃刀が一般に普及したのもこの頃で、月代の習俗化の推進に一役買った。
#どうする家康
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当時、政略結婚で他家に嫁いだ女性は実家の利益代表者であり、実家から婚家へと送り込まれた外交官兼スパイとしての側面も持っていた。お市の行動は当時の女性としては常識的なものであり、それによって本人が責められる事も無かった。
#どうする家康
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源仲章(?~1219)は宇多源氏出身の貴族・学者・御家人。官位は文章博士。院近臣の家系の生まれで当時一流の儒学者であり、また鎌倉幕府の御家人の資格を持つという複雑な経歴の持ち主。藤原定家からは「才名の誉れは無いが、博学多識ではある」と評されたという。
#鎌倉殿の13人
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1185年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 22歳
北条政子 28歳
北条時政 47歳
源 頼朝 38歳
源 義経 26歳
源 行家 44歳
九条兼実 36歳
文覚 46歳
三浦義澄 58歳
畠山重忠 21歳
梶原景時 45歳
和田義盛 38歳
大江広元 37歳
丹後局 34歳
後白河法皇 58歳
#鎌倉殿の13人
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森乱(1565~1582)は「森蘭丸」の通称で知られるが、「蘭丸」の名は後世の軍記物に登場する表記であり、同時代の資料では「乱」あるいは「乱法師」という表記が用いられている。信長の寵愛は深く、小姓の身分のままで美濃岩村城主にもなっている。
#どうする家康
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五徳(1559~1636)は織田家に戻ったが安土城には行かず、近江の寺に入りそこで出家したらしく見星院と号した。信長の死後は権力者達の思惑に翻弄される日々を過ごしたが、最終的にはかつての舅・家康の庇護を受け京都で暮らした。満20歳で未亡人となった五徳だったが再婚はしなかった。
#どうする家康
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1185年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 22歳
北条政子 28歳
北条時政 47歳
源 頼朝 38歳
源 義経 26歳
源 範頼 35歳
大姫 7歳
三浦義澄 58歳
畠山重忠 21歳
梶原景時 45歳
平 宗盛 38歳
和田義盛 38歳
大江広元 37歳
丹後局 34歳
後白河法皇 58歳
#鎌倉殿の13人
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1203年 主要人物年齢一覧(満年齢)
北条義時 40歳
北条政子 46歳
北条時政 65歳
八田知家 61歳
北条泰時 20歳
北条時房 28歳
和田義盛 56歳
三善康信 63歳
畠山重忠 39歳
大江広元 55歳
源 頼家 21歳
仁田忠常 36歳
千幡 11歳
一幡 5歳
善哉 3歳
#鎌倉殿の13人
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1561年 主要人物年齢一覧(満年齢)
松平元康 18歳
瀬名 21歳
織田信長 27歳
お市の方 14歳
木下藤吉郎 24歳
今川氏真 23歳
関口氏純 43歳
石川数正 27歳
酒井忠次 34歳
鳥居元忠 22歳
本多忠勝 13歳
大久保忠世 29歳
平岩親吉 19歳
柴田勝家 39歳
竹千代 2歳
#どうする家康
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源頼朝が倒れた要因について、戦前期の医学史家の富士川游氏は「状況から推して卒中風(脳内出血)と診断すべきであろう」という説を唱えている。
#鎌倉殿の13人
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山田八蔵(?~1588)は松平信康の家臣、諱は重英。徳川家重臣・鳥居家の家臣(信康にとっては陪臣)で、尾張源氏の一流である山田氏の末裔とされる。三河一向一揆の際は一揆方に付いたが許され、再び松平(徳川)家に仕える事を許された。
#どうする家康
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結城朝光(1168~1254)は下野国小山の豪族の子、結城氏初代当主、八田知家の甥。母(知家の姉)が頼朝の乳母だった事から幕府で重用され、その子孫は下総の有力豪族として繁栄した。三浦義村の親友でもあった。
#鎌倉殿の13人