「戦さは嫌い」みたいなセリフをどのタイミングで、誰に言わせるかでそのドラマの脚本のセンスの良し悪しが決まると言っていいが、このタイミングで畠山さんにこのセリフを言わせるとか、さすが三谷さんとしか言いようがない。 #鎌倉殿の13人
山田八蔵は大岡らの陰謀を密告した功により500石の加増を得たという。彼の屋敷のあった三河国柿碕村(現・愛知県安城市柿碕町南屋敷)の屋敷跡には彼の墓とされる塚が残されている。 #どうする家康
1576年 主要人物年齢一覧(満年齢) 徳川家康 33歳 瀬名   36歳 織田信長 42歳 於大の方 48歳 於愛の方 24歳 酒井忠次 49歳 石川数正 42歳 鳥居元忠 37歳 本多忠勝 28歳 榊原康政 28歳 松平信康 17歳 井伊万千代 15歳 穴山信君 35歳 今川氏真 38歳 武田勝頼 30歳 #どうする家康
瀬名の母・巴(関口夫人、?~1562)は #おんな城主直虎 における「佐名」と同一人物。今川義元の妹(または義妹)とされ、一説には井伊家出身で義元の側室となった後に「妹」の身分で関口氏純に嫁いだとされる。宝塚の元トップスターがキャスティングされたのは意図的なものであろう。#どうする家康
承久の乱で後鳥羽上皇方となった者の中には、実朝正室・千世(西八条禅尼)の兄たちもいた。千世は兄たちの助命を嘆願、尼将軍政子は嘆願を受け入れ兄たちは助命された。政子と千世は一緒に寺に参詣するなど関係は良好で、この関係の良さが物を言ったといえよう。 #鎌倉殿の13人
泰時の正室・初(1187~1256)は後に泰時と離婚、三浦一族の盛連と再婚した。宝治合戦で三浦一族の大半が滅ぶと初の再婚後の息子・盛時が三浦家を再興、16世紀初頭まで三浦半島の領主として君臨した。その末裔の娘とされる於萬は徳川家康の側室となり頼宣・頼房を産んだ。 #鎌倉殿の13人 #どうする家康
月代(さかやき)という髪型は昔から存在し、以前は戦の時だけ兜の中の蒸れ防止の為剃っていた。戦が100年以上続いた戦国期、具体的には信玄・謙信・信長らが活躍した頃に男子の日常的な髪型として定着していった。剃刀が一般に普及したのもこの頃で、月代の習俗化の推進に一役買った。 #どうする家康
当時、政略結婚で他家に嫁いだ女性は実家の利益代表者であり、実家から婚家へと送り込まれた外交官兼スパイとしての側面も持っていた。お市の行動は当時の女性としては常識的なものであり、それによって本人が責められる事も無かった。 #どうする家康
源仲章(?~1219)は宇多源氏出身の貴族・学者・御家人。官位は文章博士。院近臣の家系の生まれで当時一流の儒学者であり、また鎌倉幕府の御家人の資格を持つという複雑な経歴の持ち主。藤原定家からは「才名の誉れは無いが、博学多識ではある」と評されたという。 #鎌倉殿の13人
水野信元(?~1576)は於大の兄、家康の伯父、尾張国緒川城主。水野家は鎌倉以来の名門で、先祖の水野経村は近衛家出身とされ、かの三浦義村が乳母夫を務めたという。その後水野家は知多半島を拠点とする有力国衆として300年以上に亘って存続していた。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
1185年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 22歳 北条政子 28歳 北条時政 47歳 源 頼朝 38歳 源 義経 26歳 源 行家 44歳 九条兼実 36歳 文覚   46歳 三浦義澄 58歳 畠山重忠 21歳 梶原景時 45歳 和田義盛 38歳 大江広元 37歳 丹後局  34歳 後白河法皇 58歳 #鎌倉殿の13人
森乱(1565~1582)は「森蘭丸」の通称で知られるが、「蘭丸」の名は後世の軍記物に登場する表記であり、同時代の資料では「乱」あるいは「乱法師」という表記が用いられている。信長の寵愛は深く、小姓の身分のままで美濃岩村城主にもなっている。 #どうする家康
五徳(1559~1636)は織田家に戻ったが安土城には行かず、近江の寺に入りそこで出家したらしく見星院と号した。信長の死後は権力者達の思惑に翻弄される日々を過ごしたが、最終的にはかつての舅・家康の庇護を受け京都で暮らした。満20歳で未亡人となった五徳だったが再婚はしなかった。 #どうする家康
本多正信は三河を出る際に家族を大久保忠世に預けていったという。正信の妻はこの時妊娠していたようで、翌年の1565年、嫡男の本多正純が生まれている。 #どうする家康 #葵徳川三代
1185年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 22歳 北条政子 28歳 北条時政 47歳 源 頼朝 38歳 源 義経 26歳 源 範頼 35歳 大姫   7歳 三浦義澄 58歳 畠山重忠 21歳 梶原景時 45歳 平 宗盛 38歳 和田義盛 38歳 大江広元 37歳 丹後局  34歳 後白河法皇 58歳 #鎌倉殿の13人
家康は滅亡した武田家の血筋が絶える事を惜しみ、生き残った武田勝頼の娘・貞姫を家臣に養育させ、成長後に婿(足利尊氏の四男・基氏の子孫の宮原義久)を世話してやった。 また勝頼戦死の地に菩提寺・景徳院を建立し勝頼主従の墓も作らせている。 #どうする家康 #太平記
武田勝頼は勇猛果敢で武芸に優れ、『甲陽軍鑑』に「強過ぎたる大将」と評されるほどであった。側近たちも選りすぐりの精鋭たちであり、その中には真田家出身の加津野信昌(後の真田信尹)も居た。 #どうする家康 #真田丸
1203年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 40歳 北条政子 46歳 北条時政 65歳 八田知家 61歳 北条泰時 20歳 北条時房 28歳 和田義盛 56歳 三善康信 63歳 畠山重忠 39歳 大江広元 55歳 源 頼家 21歳 仁田忠常 36歳 千幡   11歳 一幡   5歳 善哉   3歳 #鎌倉殿の13人
1561年 主要人物年齢一覧(満年齢) 松平元康 18歳 瀬名   21歳 織田信長 27歳 お市の方 14歳 木下藤吉郎 24歳 今川氏真 23歳 関口氏純 43歳 石川数正 27歳 酒井忠次 34歳 鳥居元忠 22歳 本多忠勝 13歳 大久保忠世 29歳 平岩親吉 19歳 柴田勝家 39歳 竹千代  2歳 #どうする家康
源頼朝が倒れた要因について、戦前期の医学史家の富士川游氏は「状況から推して卒中風(脳内出血)と診断すべきであろう」という説を唱えている。 #鎌倉殿の13人
源三郎は史実では本来今川家に人質として出されていたが、今川家臣の三浦与一郎なる者が主家を裏切り源三郎の身柄をを信玄に引き渡したのである。ちなみに三浦与一郎は経歴等は不明だがかの三浦義村の庶長子・朝村の子孫である「駿河三浦家」の一族だと考えられる。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
奥平信昌(1555~1615)は奥三河・作手の国衆。当初は武田方だったが調略により徳川方に寝返った。その際信長から家康の娘・亀姫との結婚を求められ、武田家の人質だった妻・おふうを苦渋の決断の末に見捨て、おふうは処刑された。信昌はもう後戻りできない状況にあった。 #どうする家康 #徳川家康
山田八蔵(?~1588)は松平信康の家臣、諱は重英。徳川家重臣・鳥居家の家臣(信康にとっては陪臣)で、尾張源氏の一流である山田氏の末裔とされる。三河一向一揆の際は一揆方に付いたが許され、再び松平(徳川)家に仕える事を許された。 #どうする家康
九条兼実(1149~1207)は藤原氏五摂家・九条家の始祖、1183年当時は従一位・右大臣、藤原忠通の六男。この頃の一級史料である日記『玉葉』の著者。一条家と二条家の始祖でもあり、戦国期の関白・二条晴良は兼実の子孫である。#鎌倉殿の13人 #麒麟がくる #平清盛
結城朝光(1168~1254)は下野国小山の豪族の子、結城氏初代当主、八田知家の甥。母(知家の姉)が頼朝の乳母だった事から幕府で重用され、その子孫は下総の有力豪族として繁栄した。三浦義村の親友でもあった。 #鎌倉殿の13人