18万人も不登校がいるというのに、今の学校教育が制度疲労を起こしていることに気づいていない人が多すぎる。 「不登校」を無くすのではなく「不登校という言葉」を無くすための改革が必要。
『学校は行かなくてもいいよ』 と言うと「行かないとコミュニケーション能力が養われない」とか「社会性が身につかない」とか言ってくる人が必ず現れるんだけど、 別に学校という小さな小さなコミュニティの社会性なんて無理して学ばなくても生きていけるから大丈夫。
オンライン授業が「できるか?」「できないか?」ではなく、 本当は公教育としてオンライン授業を「やらなきゃいけない」だと思う。 子どもたちにはあるのは『学校に行く義務』ではなく、『教育を受ける権利』なのだから。
『社会に出ると理不尽なことが多いから、学生のうちに理不尽に慣れておいた方が良い』みたいなことを目にすることがありますが、学校で理不尽に慣れるから理不尽がまかり通る社会が変わらないんですよ。 どうして教育を理不尽な社会なんかに合わせなきゃいけないんですか。
日本では「逃げぐせがつく」と言って我慢させることを『教育』や『指導』と言うことがあるけれど、 そのせいで「我慢ぐせ」がついてしまい、最後まで追い込まれ、自殺という手段を選択してしまう。 日本は逃げる練習が足りていない。
教育界ではよく『成功体験』が重視されているけれど、 それよりも大切なのは、「失敗しても大丈夫、なんとかなる、誰かが支えてくれると感じれる『失敗の安心体験』」。 自分が成功した時の喜びを強調するよりも、失敗したときの怖さを小さくする方が、人は新しいことにチャレンジする。
『社会に出ると理不尽なことが多いから、学生のうちに理不尽に慣れておいた方が良い』みたいなことを目にすることがありますが、学校で理不尽に慣れるから理不尽がまかり通る社会が変わらないんですよ。 どうして教育を理不尽な社会なんかに合わせなきゃいけないんですか。
日本では「逃げぐせがつく」と言って我慢させることを『教育』や『指導』と言うことがあるけれど、 そのせいで「我慢ぐせ」がついてしまい、最後まで追い込まれ、自殺という手段を選択してしまう。 日本は逃げる練習が足りていない。
教育界ではよく『成功体験』が重視されているけれど、 それよりも大切なのは、「失敗しても大丈夫、なんとかなる、誰かが支えてくれると感じれる『失敗の安心体験』」。 自分が成功した時の喜びを強調するよりも、失敗したときの怖さを小さくする方が、人は新しいことにチャレンジする。
「楽しむ」は「怠ける」ではないよ。 「努力する」は「我慢する」ではないよ。 「優しくする」は「甘やかす」ではないよ。 「休む」は「手を抜く」ではないよ。 「逃げる」は「負ける」ではないよ。 「強い」は「勝つ」ではないよ。
オンライン授業が「できるか?」「できないか?」ではなく、 本当は公教育としてオンライン授業を「やらなきゃいけない」だと思う。 子どもたちにはあるのは『学校に行く義務』ではなく、『教育を受ける権利』なのだから。
コロナ感染拡大初期は『不登校は少数派だから学校はこれまで対応してこなかったんだ』と思っていたけれど、そうではなかった。 全国の子が強制的不登校になる中で何も対応できない3ヶ月を見てよく分かった。 ただ単に、学校は『登校させる』以外の手段を何も持っていなかったのだ…と。
もしこれまでに不登校の子の『教育を受ける権利』を本気で考えていたのなら、今、こんなことにはなっていなかっただろう。 教科書・プリントの配布、オンライン授業、成績・評価、入試試験、出席日数、今起こっている問題のほとんどが不登校問題に重なることばかりだよ。