あんまり誰も検索しないけど、意外とオフィス街から歩ける範囲にもちょこちょこマンション建ってたりするし、職場から徒歩圏だと昼食も夕食も自炊や宅飲みしやすくなって深夜タクシー代も不要なのね節約になるし、特に職場コミュニティよりお家が好きな人たちは検討すべき選択肢だと思う。
スラムダンクて漫画の中で主人公のバスケ部のエース流川が学校選んだ理由を「近かったから」て答えてるの、半ばギャグ的に「何も考えてない天然」みたいに描かれてるんですけど、近いということによって得られる時間は年間だとすごい量になって、その間勉強や練習積み重ねたらすごい差になりそう。
相手を羨ましいと感じた時に、本当に羨ましがるべきポイントを的確に羨ましがれるかって大人として大事だと思う。自分のやりたいこと上手くやってのけた誰かに対して、運とか生まれとか才能とかじゃなく、自分の中にない考え方とか勉強してきたことを見つけて羨ましがる。これを敬意を払うと言う。
自分の売ってる何かに対して「高い」って言われた際に考えるべきは、「この値段で買ってくれた顧客ありがたいな」ってことである。実際に買ってくれた人は大事にすべき「顧客」だけど、不満言うだけで買わない人は「知らん人」であり、顧客が損した気分になるような安易な値引きはするもんじゃない。
料理でも雑貨でも、売り物に対して「原材料XX円しかかかってないのに高い~」とか文句を言う人が日本にたくさんいるの、アントレプレナーシップ教育が行き届いてないのでは。大した値段しない原材料集めて、ちょっとの手間かけただけで大きな価値生める可能性に気づくのが仕事の基本だろうに。
そして九九の9の段、それまでに覚えた各段の中ボスである○×9がひたすら出てくるボスラッシュステージ感あるし、それ片付けた後に初見で出てくる9×9=81はラスボス感あるし、「十の位と一の位足すと9になる」っていう劇的に攻略が楽になる裏技用意されてるのも奥深い。十の段のエンディング感もいい。
ふと九九はゲームとしてのステージ構成がよく出来てるなって思った。チュートリアルの1の段、基本操作覚える2の段、序盤の難所3の段、2の段応用する4の段、ボーナスステージかつ各段のセーブポイントになる5の段、3の段応用する6の段、最難関7の段、4の段さらに応用する8の段と続く。
確か自分が以前聞いた話だとインド人は20の段まで九九覚えるらしく、11以降はやりこみ勢向けの裏面または続編だろうか。意外と簡単な11の段から始まり、通常面の最難関だった7の段を応用する14の段や、新機軸の13・17・19の段など、こちらもバラエティに富んでてやりこみ甲斐があると思う。
礼儀とかマナーとかそういうやつ、「きちんと敬意を払いたい相手を喜ばしたり少なくとも不快にさせない非言語な方法」というものなので知っておいた方がいいのは間違いないんだけど、大した恩恵与えたわけでもない相手がその姿勢示さなといちいち不機嫌になる人「自分を何様だと思ってるんだ」感ある。
昔ただの地方大学だったスタンフォードの教授が「いくら教えてもこのへんに電子工学活かせる仕事ないし教え子みんな東海岸で就職してしまう…」みたいな問題意識から、教え子の起業をサポートしたり、産学連携に注力した結果シリコンバレーは生まれたって話、日本の地方も参考にした方がよさそう。
この数年、地方創生周りの仕事して色んな人の話伺うんですけど、日本人の多くが「稼ぐ方法」として農水産物売るか観光客に来てもらうかしか思いつかないって状況けっこうヤバい。発想が南の島でのほほんと暮らしてる人みたいじゃないか。
そういえば、 ・たまたま大学の近くにあったため ・電子工作が盛んになり ・コンピューターを趣味にする人が集まる というところまではシリコンバレーと秋葉原が同じような歴史たどってるのに、秋葉原はいったいどこで道を間違えてしまったんだろうな。
知能っていうと「筋道を立ててよく考える」みたいなニュアンスが含まれるけど、現行の統計的機械学習技術ではこの部分ほぼ抜け落ちてて、どちらかというと「色んな経験積んで直感で判断できるようになる」みたいな仕組みである。なので人口知能じゃなく「人工直感」て言った方が適切なのかもしれない。
「女子が男子よりも精神的な成熟が早く、受験時はコミュニケーション能力も高い傾向にあるので女子受験者差別すべき」っていう何のエビデンスに基づいてるんだかわからない考え方をふつうに受け入れている医学部の教授達に自分や家族の治療方針決めてもらうの、正直ちょっと怖くないですか。
自分の知る限り、一般的な認知機能じゃなく「精神的な成熟」とか「コミュニケーション能力」とかいうふわっとした概念の測定尺度で確立したものはなく、「北国生まれは体が強い傾向にあるのでインフルエンザの治療薬やワクチンの使用は後回しでもよい」とかいうレベルの理屈じゃないですかと。
なおいわゆるIQは昔「子どもが順調に知的な発達を遂げているか」って側面から研究されていたこともあるため、精神年齢≒知能って表現が用いられることもあるけど、近年の研究では一般的に同年齢の男女生徒間でIQの差はほとんどあるいは全くないとされるのでこの意味では差別の理由にならない。
もしかすると中のどなたかが急に調査されて苦し紛れの言い訳として思いついただけなのかもしれないけど、医療にエビデンスが求められる現代において、うっかり一番最悪の言い訳を選んでしまった感がある。
心理学の研究上「後に起こったことによって過去の記憶が書き変わる」という仕組みを人間は持ってるそうなので、辛いことはその場で意味付けを変えてしまうとよいのかもしれない。具体的には脳内で 「逆境。だがこの経験が、後に彼の爆発的な成長に繋がるのである」 みたいなナレーションつけるとか。
例えば彼は、1900年時点のロシアの農村で「北極には常に雪がある。常に雪がある地域のクマは白い。では北極のクマは何色?」という論理学の問題を出すと、「俺が今まで見たクマはみんな茶色だった」と答えられたというエピソードを紹介している。ted.com/talks/james_fl…
こういうギャップって今も存在していて、例えば新規事業のアイディアを募っておきながら、極めて理に叶った素晴らしい企画書が出てきても「成功事例を見たことがないから」みたいな理由で却下する人がいるんですけど、もともと人類こういう人が多かったと考えればまあしょうがないよね。
人類のIQが時代と共に上がり続けていることを発見者の名を取ってフリン効果と呼ぶんですけど、彼によれば特にその中でも大きな進歩を示しているのは「仮定をおいて抽象的なことをロジカルに考える」という能力らしい。逆に言うと、自分の経験だけでしか判断できない人が昔はもっと多かったそうな。
イノベーションこそが経済成長の源泉である、という考え方に基づくと、おそらく今はどこの国も「見たことのあるクマの色だけに捕らわれる人」よりも「見たことなくても北極のクマの色を考えられる」タイプの人を大事にしたり、予算や権限を与えてあげた方がいいんじゃないでしょうか。
「努力は報われる」というよりも「努力はアドバンテージになりうる」というのが正しいんだと思う。どんな人でもできることを人と同じようにやってても何の差別化にもならないけど、人がやるべきことをためらってるようなことをたくさんやれば、それだけでたいていの競争は有利になる。
ただし同じやるべきことでも、「自分はたいへんだけど他の人はそうでもない」って努力を積み重ねても効率が悪く、逆に「自分はノンストレスだけどみんなたいへんだと思ってる」ってことをやり続けた方がアドバンテージ度合いは強い。こういう向き不向きを見つけることが才能というものなんだろう。
『進歩:人類の未来が明るい10の理由』って本には人類がこのわずか数十年ほどだけでも飢餓も病気も貧困も暴力も多くの問題解決してきてるってデータを細かく出して、何度も「昔は良かった」とか「人類はこれから危機を迎える」みたいな言説批判してて、人類みんな読めばよいのにって思った。