今大混乱中のアフガニスタンの首都、報道では「カブール」と表記されるけど「カブル」や「カーブル」の方が発音に近いらしく、歴史関係の本では「カーブル」が多いようなので僕の漫画の中でも「カーブル」と表記しました。
トルコ風パターン素材集 by 大西巷一 assets.clip-studio.com/ja-jp/detail?i… #clipstudio 自作したオスマン・トルコ風柄トーンの素材をアップしました😊
この指摘はいろいろ興味深いですね~ ぼくはなぜよく知りもしない中世チェコの漫画なんぞ描いたんだろう?😅 実際にチェコの人に会ったりすると恐縮しまくってしまうんだけど「大丈夫、チェコ人もチェコの歴史よく知らないからw」って言ってくれたりします☺️ twitter.com/sow_LIBRA11/st…
今アフガニスタンのカブール脱出を巡る混乱が連日報道されていますが、第一次アフガン戦争(1838~42年)の時に起きたイギリス軍兵士および民間人のカブール脱出のエピソードを紹介してみます。
1839年、イギリス東インド会社の軍はカブールを制圧し、傀儡政権を打ち立てた。英国人将校率いるインド人兵士4500人と、その家族ら民間人12000人がカブールに駐屯した。しかし彼らはその後現地勢力の本格的な反撃を受け、1841年には危機的状況に陥った。
11月には英国公邸が暴徒に襲撃され、12月23日アフガニスタン側との交渉に出向いた特使と将校は殺されて、その死体はカブール市内を引き回された。イギリス側の兵士・民間人16500人は、明けて1842年1月6日カブールを脱出。雪が降り続く中、140キロ先のジャララバードを目指す死の行軍が始まった。
安全に退去できるという約束を信じて大砲は置いていったが、カブールの城門を出るなり銃撃が浴びせられた。一日目は8キロしか進めず、夜のうちに寒さで数百人が死んだ。 ホルドカブール峠では両側の高地からの攻撃に晒されながら進み、3000人が死亡。夜には寒さでさらに死者が出た。
5日後の1月11日、一行を率いる英国の少将エルフィンストーンは自ら人質になって安全を賄おうと試みたがその甲斐はなく、翌日はジャグダラクの峠を封鎖されて分断された後衛部隊が壊滅した。
13日の朝には将校と兵士合わせて65人が残るのみとなり、ガンダマクでアフガニスタン兵に包囲されて最後の抵抗を試みた。馬に乗った6人の将校だけがかろうじて包囲を突破したが、ジャララバードの目前でまた襲撃を受け、5人が死亡した。
13日の午後、イギリス軍が駐屯するジャララバードに生きて辿り着いたのはブランドンという名の将校ただ一人で、膝と左手と頭に重傷を負っていた。 2日後にさらにもう一人の商人が辿り着いたが翌日に死亡。 また50人が捕虜になって、のちに釈放された。
…以上、ソースは『本当にあった 奇跡のサバイバル60』 amzn.to/38qjozW です。 英語のWikipediaにも記事がありました。 en.wikipedia.org/wiki/1842_retr… こんな悲劇が繰り返されないことを祈ります…
ファンタジー小説において、馬車で移動する時、どれくらいの時間と距離なら妥当なのか? 実際に簡単に把握する方法をまとめ - Togetter togetter.com/li/1768803 @togetter_jpより
BLを規制する中国政府も女性にブルカを被せるタリバンも夫婦別姓を認めない日本の保守層も根っこでつながっているんだよな。「男は男らしく、女は女らしくあるべき」っていうところで。 人間にはいろんな可能性があるし、できる限り多様な生き方を選択できる社会の方がずっといい。
20年前の9.11テロで日本の名もなき漫画家がピンチに陥った話をします。 当時僕は駆け出しの漫画家で、講談社の「アフタヌーン」という雑誌で連載をしていました。その日は〆切直前で、アシスタントさんと2人で徹夜の原稿作業をしていました。
いつものように流していたラジオからニュース速報が入り、アメリカの国防省が攻撃が受けたと聴いて耳を疑いました。テレビを点けると映画でよく見るペンタゴンから煙が上がっていました。その後ニューヨークで起きたさらに衝撃的な事件もテレビで横目で見ながらペンを動かし続けていました。
「これは大変なことになったな…」と思いつつも、どこか現実離れした事のようにも感じ、ましてそれがまもなく自分の身に危機を招くことになろうとはまったく予想できませんでした。
翌朝、完成した漫画原稿を抱えて僕は近所の運送業者の事務所へ行きました。僕は当時札幌に住んでいて、その日の朝イチの航空便で東京の出版社に原稿を発送するのが〆切のデッドラインでした。ところが事務所の受付で言われたことには、昨夜のテロの影響で航空貨物便は当面停止されるとのことでした…
頭が真っ白になりました。 貨物便の再開はいつになるかわからないとのこと。本来なら代わりに陸路で運ぶ手もありましたが(一日くらいは遅れるけど)、その日はたまたま本州から北海道に向かって台風が北上中で、陸路の貨物便もいつ届くかわからない状況でした。
何てことだ、原稿は出来ているのに、それを入稿する手段がない! 今なら一瞬でデジタル入稿できますが、20年前の当時はまだ紙に描いて現物を送る時代でした。 荷物として預けておけば数日後には届くだろうけど、それでは〆切に間に合わない…
その時、受付けの人が教えてくれました。 「手荷物なら運べますよ」 航空貨物は停止されたけど旅客便は動いているので、飛行機に客として乗って、機内に持ち込める荷物なら一緒に持っていくことが出来るとのこと。 それだ! それしかない!
僕は車で千歳空港に向かい、羽田行きの便に乗りました。教えてもらった通り、手荷物として原稿を持ち込むことは出来ました。羽田から講談社のビルに着いた時にはまだ午前中で担当さんも出勤しておらず、担当さんのデスクに原稿と書き置きを残して、札幌にトンボ返りしました。
こうしてなんとか無事に入稿できました。 まあ、早朝だったので担当さんに電話するのも憚られたけど、相談すればもう少し〆切を融通してくれたかも…? 徹夜明けの眠い頭で必死に考えた方法は最適解じゃなかったかもしれないけど、後日担当さんは飛行機の代金を経費で落としてくれました。
そんな20年前の思い出話でした🙇
ちなみにその時連載していた作品がこちら。 大西巷一 『女媧 ~JOKER~ 1』 #マンガ図書館Z mangaz.com/book/detail/42… 無料で読めます。 2001年の終わりには打ちk…完結しているので、かなり終わりの方の回だったはず。