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国立美術館でもどこでもやってますが…… twitter.com/katsuyatakasu/…
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西成を舞台にした映画『解放区』の大阪アジアン映画祭での上映を「地域への偏見」を理由に中止に追い込んだ大阪市は、一方で吉本興業との利権プロジェクトを次々に推し進め、数多の文化拠点を目先の金欲しさに売り渡している。「まちこわし」の真の主導者はだれか。 twitter.com/re_ndj/status/…
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しんゆり映画祭の運営側に対する批判は慎重にせねばならないと思っていたが、すみません、「上映しろという圧力に屈するわけにいかない」という発言には目の玉が飛び出そうになりました。 kanaloco.jp/article/entry-…
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戦前に「赤狩り安倍」として名を馳せた特高部長・安倍源基(小林多喜二を拷問死させた主犯格)は戦中には内務大臣を務め、戦後A級戦犯として逮捕されたが不起訴に。このとき同じく無罪放免となり、その後首相に就任した男は安倍を国家公安委員長候補として強く推した。安倍晋三の祖父・岸信介である。
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小松菜奈について、「キラキラとした可愛らしい役柄が多かった」と書いている時点でまともに映画を観ていないことがわかるが、性的暴行シーンなどを演じることが「実力派女優」の証であるかのようなこういう論調はいいかげんにしてほしい。 nikkan-gendai.com/articles/view/…
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誤解なきよう付記しますが、このツイートは「性的暴行シーンなどを演じたくらいで実力派と呼ばれるのはおかしい」ということではなく、「性的暴行シーンなどを演じたことをもって実力派という評価を下すような論調は抑圧的だ」ということです。「可愛らしい役柄」だろうがなんだろうが実力派は実力派。
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安倍首相の数ある問題発言のなかでも、今回の「障害者雇用」云々は段違いに酷いと思う。 www3.nhk.or.jp/news/html/2019…
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松江監督がすべきことは「加賀さんの気持ちが収まるまで」謝り続けることではなく、まずこの件にかんする事実関係を包み隠さず公にすることでしょう。加賀氏の主張に誤りがあるのなら反論すればよいし、そのとおりなら潔く認め謝罪したうえで退場してほしいと思います。 lineblog.me/satori_ito/arc…
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NHKから国民を守る党の立花孝志氏は「『冬のソナタ』を買い付けてきたのは僕です」とさも韓流ブームの仕掛け人であるかのように触れ回っている。僕はアジア映画専門誌の編集者だった頃に実際に買い付けを担当した部署の方3名にいきさつを取材したことがあるが、立花氏の名前は一度も聞いたことがない。
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立花氏はNHKで経理の仕事をしていたそうだから、制作と編成の決定を受けて入出金の処理くらいはしたのかもしれない(それでも予算を充てるかどうかの決定権はもっと上の部署にある)。どう解釈したところで、それを「買い付けてきた」とはふつう言わないだろう。
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@akaishitakeo 私が取材した方と同じ女性と思われます。それ以前から韓国ドラマを熱心にチェックされていて、「冬のソナタ」は当時としては珍しいソフィスティケートされた雰囲気が日本人の視聴者にも受け入れられるのではないかと考え、放送したところ、あの大反響になったということでした。まさしく慧眼です。
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『パラサイト』を「お家芸のパクリ映画」と言っている「映画通」とは誰なのか? ちなみにポン・ジュノはキム・ギヨンにもジョセフ・ロージーにも影響を受けたことを公言しているが、だからこそ彼らとはまったく違うアプローチで映画を撮っている。影響とパクリを一緒にされてはたまったものではない。
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ある作品を「面白い」と感じるひともいれば「面白くない」と感じるひともいる、両方を認めてこそ多様性が保たれる、という主張はそのとおりだが、ある作品を「面白い」と感じるひとがいることと「差別的」と感じるひとがいることを同列にして多様性を語ることはできない。
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新型ウィルスに感染することよりも「コロナマン」とか「ダイヤモンド・プリンセス民」とかいうことばを平然とつかうひとの感性のほうがこわい。
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今回の騒動で取りやめになったが、実は僕の両親はダイヤモンド・プリンセス号を予約済で、まさに今週、出航予定だった。父は介護従事者で、決して裕福ではないけれど、地道に貯めたお金をあてがい、何ヵ月も前から心待ちにしていた。見ず知らずの人間に「お遊び」などと冷やかされるいわれは毛頭ない。
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一応補足しますが、トンチンカンな自己責任論を言い立てるために「お遊び」という表現をもちいることが問題(嫌みったらしい感情誘導という意味で)なのであって、実際に乗船の目的が遊びで全然問題ないわけです。
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『Fukushima 50』。最大の疑問はキネ旬の星取評に書いたとおり。いまこの題材を映画にするならば、まず表現の主体がどこにあるのかが問われるはずだが、海外メディアによって付された呼称をそのままタイトルに冠したこの映画は、能動的主体をもたず、あるいは意図的に伏せて「事実」を描写していく。
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主体を欠いたこの映画は、しかし吉田昌郎(渡辺謙)や伊崎利夫(佐藤浩市)ら特定の人物の感情にはいともたやすく同調し、全力で観客の共感を喚起しにかかる。そのためには、たとえば娘の結婚をめぐる父娘の確執といった手垢のついた人情劇までもが唐突に持ち出される始末。
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この吉岡里帆演じる伊崎の娘、あるいは安田成美演じる福島第一原発の職員ら女性の描かれ方に、この映画の人物演出の貧しさがもっとも顕著にあらわれている。それと関連して、この映画における吉田や伊崎はまるで抑圧的な人物にしか見えないが、作り手はそのことを自覚しているのだろうか。
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吉田昌郎や伊崎利夫の「ドラマ」が描かれる一方で、官邸側の人間は劇中、役名すら付されていない。どのような人物解釈があってもよいが、特定の個人から名前を剥奪する手口はひじょうに不気味で、この映画における主体の決裂を象徴しているように感じた。いったいなにをおそれているのか。
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名前のない総理大臣(明らかに菅直人)を演じるのは佐野史郎だが、この配役は感慨深いものがある。というのも、かつて東京電力のコマーシャルに出演していた多くの俳優・芸能人のなかで、震災後、自己批判のことばを口にした唯一の人物が佐野史郎だったからだ。
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そして、この映画を特徴づける主体の決裂は、ラストシーンにおいて、一種の「タネ明かし」を見せることになる。ここでは、ある人物の手紙のことばが読み上げられるのだが、事故が引き起こされた背景になにがあったのかを述懐するそのことばの扱いには、はっきりと「隠蔽」の意志がにじみ出ている。
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あらためて書くが、このかん「福島」を題材に映画を拵えてきた作り手たちは、実際に完成した作品がどうであれ、表現の主体をめぐる問答のなかで「事実」を一身に引き受けようとしていた。そうした試みを受けてなお、動揺と怒りと対立を喚起する映画をつくることは、僕には到底理解しがたい。
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『Fukushima 50』は、「原発に対する賛否関係なく」(つまり表現の主体を伏せて)「日本人なら観るべき映画」(すなわち全体化)と喧伝されていることにこそ見過ごせない欺瞞がある。
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『Fukushima 50』と『新聞記者』を同列に論じる向きがあるようだが、上記の点をもって、この2作には大きな隔たりがあると思う。僕は『新聞記者』には批判的だが、あの作品は表現の主体をこれ以上ないほど明確に示していた。『Fukushima 50』は主体を伏せ全体化を図ることでその責任からも逃げている。