ちなみに戦時中のドイツ社会では、ホロコースト等ナチの悪行について、 「薄々察知していたが、表向きは知らないことにしていた」というのが実情として多かったそうで、それは確かにそうだろうなと思います。 で、そういう免罪符への疑念は、著名人であるほど高くつきます。
今日に始まったことではありませんが、この、情報の重みづけ調整ゼロ感がなんともいえません。
【「プーチンは侵略者」 ロシアから反戦ツイート 弾圧下の投稿者11人の覚悟】nikkei.com/telling/DGXZTS… ロシアでは「因果関係が破綻しているのです」という、サンクトペテルブルク在住市民の言葉が刺さる。 内部から見た全体主義の情景として、どの証言も極めて重く、印象深い。
議論の取りまとめとかの作業をやってて痛感することのひとつに、 「つまらない知識マウントで文脈の興を削ぐヤツは知性の敵」 というのがあります。いやーホントに。
ゼレンスキー大統領の演説、 演説の前に、会場となる議員会館の模様が流れていて、そこで岸田首相が妙に嬉しそうにずっと隣の外務大臣と談笑していたのが気になった。駐日ウクライナ大使とかとは会話せずに。
【ロシア軍の死傷者・捕虜は3~4万人か 侵攻1カ月 NATO推計】 news.yahoo.co.jp/articles/fc3b4… これが本当だとして、 「不利をチャラにする」 「負け評判を揉み消す」 ために、核とか大量破壊兵器を投入! みたいな展開はやめてほしい。 やめてほしいと言ったからやめてくれる相手ではないかもだが。
「何といってもウチには核兵器がある!」 「おおー!」 みたいなやりとりを首脳部の内輪で繰り返していると、いずれ、外聞を気にせず「使わないと引っ込みがつかない」状況になるのではないかと心配です。
「ロシア地上軍全力投入」っぽい話が報じられる割に、赤の広場でのお披露目で「え?これなのか?」と世界をある意味沸かせた最新戦車T-14アルマータの姿が全然見られないのは何故か? という議論に巻き込まれる。 「やられた姿を晒すわけにはいかない」から温存なのか、稼働率が低いのか、あるいは…?
ロシア関係情報も、なんだかんだで旧来的な逆張りディベート議論のネタとして変な文脈から消費される度合が強くなってきた感があり、そういうのに触れると一種の疲労感が蓄積するのであった。
いわゆる反戦平和的な言説には 「戦争を徹底的に忌避すれば、戦争が遠ざかってくれる」 という呪術めいた文脈を感じることが多い。それを非現実的だと嘲るのは簡単だが、逆に、もしすごい呪術師が総出で取り組んでみてある程度の効果が出たりしたら凄いな、と思わぬでもない。
何らかの極論陣営に加担したり、情報戦ぽい状況に進んで食い込むことを「社会参加」だと思いこんでいるっぽい人が目立つので、改めて 「重要なのは情報よりも知性だ」 と感じてしまう今日このごろです。
『ワイド!スクランブル』では時間が足りず満足に述べられなかったが、アカデミー賞だろうが何だろうが、 『ドライブ・マイ・カー』は本当に素晴らしい映画。世界の裏側の深い構造が部分的に開示される傍らで、主人公が自らの人生を再構築してゆく。村上春樹の原作から大きく逸脱しているのに、極めて
すごい費用と手間をかけて現代ロシア装備をバッチリ決めていたサバゲーマーの方(知人のチームメンバー)が、 「もうこれ着てフィールドに出られないッス…」 状態だそうで、もちろん一般世間的には「それどこじゃねーだろお前!」な話ですけど、「そういうのもあるのか」的に微妙に印象深かったです。
ここでウクライナのプラモメーカー(しかも本社はキエフ。今はどうなのか不明だが)から現用の戦闘車両の新製品予告が飛び出す状況には、いろいろ深く考えさせられるものがある。 元々はロシア市場もけっこうなお得意様だったそうなだけに。 twitter.com/MiniArt_Models…
ウィル・スミスの殴打事件は、 「正義」と「暴力」の両立可否に女性のシンボル性が絡む、という面で、最近の揉めごと系のエッセンスが凝縮されている感があるのもまた凄い気がします。
この事件は女性が絡むことで妙に複雑化し、「これなら暴力も仕方ない」という印象による正当化がけっこう共感を得ている印象。 でも「これなら仕方ない」感ほど危ういものはないのよ。
なぜかといえば「これなら仕方ない」感には宿命的にブレが存在するから。 だからこそ法律というものが出来た、という経緯を思い出す必要があるような。
今回の戦争であらためて明確化したことの一つに「側近をイエスマンで固めることのリスク」があるでしょう。 とはいえその教訓を得るのに、これほどの人命や文化・経済的な損失が伴わなくていいのに。
イエスマン体制が行き詰まったときに残るのが「組織の全体ポテンシャルをまるで発揮できなかったみっともなさ」だったりする点もまた実にアレで、だからこそ「押してはいけないボタン」の存在が気になったりするわけです。
【卒業式で「三流大学」と発言、姫路市長「エール送るつもりだった」】yomiuri.co.jp/national/20220… 記事をろくろく読まずに決め付けコメントしているっぽい人の多さに驚く。 いや、読んだ上での読解力の問題かもしれず、であれば問題はより深刻だ。
「チェルノブイリに侵攻したロシア兵がヤバい場所で塹壕を掘ったりして急性放射線障害に!」という話、真偽が問われている(そして真相はなかなか判明しないであろう)が、とにかく 「偏見的な戯画じみた、雑なロシア軍」 イメージそのまますぎるのが、いろいろと考えさせられる。
そういえば最近の『ロシア・トゥデイ』は、昔に比べてつまらなくなっていた。 実質プロパガンダにせよ、下記のように数年前のコンテンツにはそれなりに見応えがあった。 単なる体制忠実度を基準に人材評価や組織運営を行い続けると次第にこうなるのか、という意味で何気に印象深い。 twitter.com/marei_de_pon/s…
「表現者になりきれなかった者たちの呪いがネットには満ちている」という、知人の言葉のインパクトが忘れられない。
いろいろなものが可視化されちゃったから、 「自分の承認欲求が満たされていない」という状況についての、ごまかしや抑制が利きにくくなっている面もあるような気がします。
これは私見ですが、内的な表現欲の有無という以上に 「表現者になれなかったけどその環境から身を引くこともできず、中途半端な状態で、そもそもなりたかった対象に延々と向き合わせられる」 的な状態から強い呪いが生じてくるのかなと。 きちっとした返答になっていない気もして申し訳ないですが。 twitter.com/toygunslinger/…