85年前の今日、1937(昭和12)年8月15日の読売新聞第二号外。海軍機による中国の首都南京への渡洋爆撃を報道。宣戦布告もせず、戦線後方への爆撃で攻撃準備中だから爆撃したと。 国会議員、よく見てください。これが先制攻撃ですよ。これでもう、引けなくなったんですよ!
私は靖国神社へ行かないという発言に、戦死した叔父の本当の気持ちが分からないのだろうとのリプ。こうした空気をつくるためにも、靖国というシステムは必要だったのかなと想像する。
戦争で負けると植民地になるんだから戦争システムが必要とドヤって靖国の引用リツした人がいたが、第一次世界大戦の結果、力での現状変更を認めない不戦条約も中国の主権を尊重する九カ国条約もあったし、満州事変当時にはフィリピン独立が決まるという中、逆行したのが日本だったのは間違いない。
これだから行政に任せちゃあかんのよ。視察した議員絡みで補助金など盾にされたのか、電話1本だけで面倒くさいと避けたか? 731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト shinmai.co.jp/news/article/C…
地元に元731の人がいて、その人が貴重な品を残して証言もしているんだから、せめて市民の証言ぐらい守ってやれないのか。 市教委はいろいろな議論があるからって逃げてるけど、ネットの妄想と生涯かけた研究者を同列に扱うようなもの。腹括っていこうよ。松代の説明文書き換えと同じじゃないか。
自分も軍人精神注入棒の写真を提供していて、その過程で民間組織と市教委がしっかり話している感じがあったから、こういう取り組みが広がればいいと思っていただけに、尚更残念。
フォロワーさんが16000人を越えました! 3年前の展示会の時、5000は行っておりませんでしたが、フォロワーさんが何人も来てくださいました。今回は1日あたり来場者数が前回の2倍以上、いつもツイッター見てますよと声がけしてくださる方も急増し、苦労してまとめた展示も報われました。(続)
日中戦争下、木綿の利用が制限されて代用品として推奨されたのが化学繊維の一種スフ。しかし水を吸うと強度が低下する問題があり、ゴシゴシ洗いはいかんと。そこで登場したアイデア商品「トゥニチ圧洗器」! 木製の本体の中にガラス玉が底から少しだけ出てコロコロ動くというものです。(続)
昭和初期ごろの日本って、ほとんどこの漫画の意識だぞ。そりゃ帝国主義時代だけど共存や民族自決って意識の共有が進んでいた時代に何周遅れだったんだろうな。
84年前、日中戦争開戦翌年の1938(昭和13)年2月に小学館発行の「支邦事変エマキ」。ひとの命の軽さを競うような内容が「感動」として消費されているようです。一方でキャラメルを配る宣撫の絵が戦争の本質を隠します。(続)
そしてここでも日本が一番自慢。煙幕の起源を忍者にとか、タンクも日本の発明とか、中国戦国時代もローマ帝国も真っ青ですね( ゚∀ ゚) 宣撫写真は現代でも虐殺否定などを唱える方が使ってますね。最後に陸海軍の一日。もちろんビンタやバッターは出てきません。 こういう情報が溢れてました。
大日本雄弁会講談社も負けちゃいません。1939(昭和14)年5月発行の講談社の絵本「感状に輝く勇士奮戦美談」。戦死者ばかりじゃないけど、命を的とするのが兵隊の本懐というのが伝わってきます。これが当時の普通の価値観でした。そこまで行ったらもう戻れないと肝に銘じて。
現在の長野県佐久市にあたる野沢町の大日本国防婦人会資料です。展示会で示した戦争経済腰折れの後は、こうした組織が戦争を引っ張った様子が伝わります。 なお、当時の女性にとっては堂々と家を出て社会的な行動ができる側面からも人気で積極性もあり、軍部はそんな思いも戦争で消費したのです。
9月1日となると、この関東大震災の信濃毎日新聞分析を出さねばなりますまい。どんな状況があり、どんな情報が伝わったか。反省も教訓も多数汲み取れます。sensousouko.naganoblog.jp/e2301006.html
心しておかねばならないのは、当時の「日本人」が朝鮮人を同胞というより蔑視の思いで見ていた事が明瞭であること。そして、その暴力性でしょうか。
関東大震災と言えば、大日本雄弁会講談社のこの本の記事。流言の中で「地震を起こす機械」というのが出てきます。外国が日本で地震を起こしたと。こういう話も昔からなんですな。
「日本は凄い‼️」の危険性は「他の国も凄い‼️」という視点をかき消して、こじれた優越感や他国への蔑視感を育てる可能性があること。他人を下げて相対的に優位に立とうとしたり、単に他国を無視するならなおさら。
遺髪と遺言状。長野県南向村出身の兵士が、検閲を経ないで出したものです。両親に本当に恋した女性の事を打ち明けたり、近代戦への達観と、流されるニュースへの驚きと。。 若者がここまで追い込まれる、そしてひっそりこうした資料が消えていく。 いかにして残していくか悩む日々です。
関東大震災では、全てではないですが朝鮮人らの虐殺犯の裁判が行なわれていますが、ひどい一例を。1924(大正13)年4月13日の横浜毎朝新報、中国人を集団(最低11人)で殺した事件で流言がなかったら罪を犯さなかったと最も軽い求刑に。見出しも「誤殺犯」と、まるで事故のような表現。この蔑視感!
将来があったのは殺された側も同じ。何が同情だか。
ここまで急激に円安が進み、しかも定着しそうなのに、対策に動いている様子が伝わらない。金利政策とか大至急の話なのに、一生懸命なのが国葬だと? 戦争の話題で探すと、ミッドウェーで空母部隊の再建が急がれるのに防諜のため飛行士らを軟禁したようなものか。勝つ気がない、今だけってことか。
盧溝橋事件に端を発した日中戦争で南京が陥落し迎えた1938(昭和13)年の1月20日、三越ホールで取り引き先の集まりか、三正会総会と戦勝祝賀会が開かれました。展示会前に入手していたら絶対展示しました。オーケストラの演奏や長唄など楽しんで食事になだれ込みます。浮かれ気分が伝わってきます。(続)
軍需で市場は賑わい、まだ商品のストックもあって、イケイケの時期。愛国行進曲の全員合唱にも力が入ったことでしょう。 でも、戦場で敵味方問わず死傷者が出て、そして中国の人たちが普通に住んでいる街や村で戦争しているんです。そんな現実を無視するかのように祝賀…戦争は始まれば(続)
誰も止めなくなる見本です。戦争は始まれば終わりなんです(´;ω;`)
日本の戦争は蔑視感を含んだ大衆の「やっちまえ!」という熱狂を利用して始まり、熱狂を制御できなくなって拡大し、熱狂が冷めても責任逃れのため誰もが引きずり回したんだなあと、散らばっていた資料を見てつくづく実感します。