ウクライナ侵攻に関連して日本の食料自給率を心配する声が出ています。実際に日本が封鎖されたら、燃料の不足が一番の問題となるでしょう。運搬が滞り生鮮品は腐る。肥料も農薬も生産できず運べず機械も動かないので、生産は縮小する。自給率どころじゃない悲惨な状態が予想できます。(続)
太平洋戦争下の日本が今より食料自給率が高かったのに飢餓が広がっていったのと同じです。当時も運送の麻痺で港や農業産地に滞貨の山ができ、豆は芽を出しサツマイモは腐ると。 今なら産地へ買い出しに行こうとしても、鉄道はローカル線が廃線になってきているし、一層苦しいと思いますね。
せっかく関心を持たしてもらったので、これでもしっかり読むか。
たった2人の高校生が呼びかけて50人の若者が集まり、歌を歌って歩くデモで停戦呼びかけたって…素晴らしい。仕事じゃなかったら一緒に歩きたかった。 ウクライナ危機 平和的解決求める若き訴え 長野市中心部で高校生らがデモ shinmai.co.jp/news/article/C…
これはストレートに素晴らしい地元資料。1940(昭和15)年に長野県上諏訪町(現ー諏訪市)の上諏訪郵便局が作った子供向け保険勧誘冊子です。小国民の知識「日本は情け深い國」は、中国がいつも乱れているから日本が出ていって中国の為に戦ってあげているんだと…。 盗人猛々しいとはこの事じゃ。
今朝の信濃毎日新聞に乗っていた記事「TV出演者、偏る男女比 NHK放送文化研究所調査」が興味深い。男性が6割と多いけど、問題は年代。女性は20代、男性は40代がそれぞれピーク。男が女子どもに教えてやる、導いてやるーという構図が明らか。「自然と男性目線の意見が多く発信されてしまう」と。(続)
三国同盟が話題なので、戦時下の表象を見てみましょう。講談社の絵本「ヒットラー」では、日本代表は近衛首相。写真週報の表紙でも三国の少女が手にする羽子板も近衛首相。戦時下トップはもちろん天皇だけど、事務方トップを前面に出して、実は日本は一番偉いって表現しようとしたのかも。(続)
近衛首相は日中戦争開戦時の首相だけど、太平洋戦争開戦時は東条首相だし、満州事変はまた違う。それに大日本帝国憲法でいけば、誰がなんと言おうと天皇がトップでしょう。
満州事変の時って、ものすごい盛り上がったんだよね。非常時に、操作ひとつで一斉にひとつの方に動かされやすいって事はよく覚えといた方がいい。同調圧力の強い日本ではなおさらね。満州事変国防献品記念録より。
憲法記念日ですが、年々、権力者が憲法を棄てようとする圧力の高まりを感じます。しかし、権力に抗う事こそが大事であり、抗い続ける限り、敗北の連続であろうとも、先人の犠牲の上で得た憲法に恥ずかしくない生きざまをしたと、胸を張って次代に期待し託せると思います。 祖父と父の話をします。(続)
父は国民学校を卒業した翌日、1944(昭和19)年に海軍工廠へ行きます。太平洋戦争が始まった日、地図を広げて「日本は負ける」と直感した人です。既に兄2人は出征、自分も戦争に行かされるだろうが、海軍工廠にいれば少しでも遅くなるとの見通しからでした。そのうち中島飛行機の武蔵工場へ(続)
祖父は太平洋戦争でニューギニアに出征しました。自宅に妻と子供2人(1人が母です)を残し。「家族のため、必ず帰る」という信念で赴いたということです。さまざまな努力の末、終戦。仲間が山に逃げるという中、祖父は海岸近くに残って捕虜となり、帰還したということですが、山の仲間は帰らず。(続)
父は、ずっと、あの戦争とは何だったかを知ろうとしていました。権力は、戦後一貫してその姿を薄めようとしてきました。自分は、その流れに抗いたい。自国にも他国にも引き起こした惨禍と経緯を知り、後世に伝えたい。それが次世代の行動の為の、大切な武器になると信じています。
行かないかと募集があり、200円貰えるという事で手を上げます。ところが、いろんな名目で中抜きされ、僅かしか残らず「世の中、こんな風に出来ているんだ」と実感したとか。そしてb29の空襲を受け、作業台に隠れて貫いてくる爆弾から何とか逃れました。そのうち元の海軍工廠へ戻りますが、(続)
今度は父親の葬儀を出して引越した当日に宇治山田空襲に。アルバム1冊を持ち、逃げ延びます。 戦争から生きて帰る、戦地になんとか取られないように…ささやかと言えば、とてもささやかな抵抗ですが、そのおかげで祖父と父は生き残り、戦後を働き、そして今、私がいます。(続)
こちら、1933(昭和8)年2月8日の写真ニュース(発行者不明)。国際連盟のリットン報告書などの勧告案採決を前に日比谷公会堂で7日に行った国民大会。「連盟何者ぞ」と自分達を強大に見せる表現の一方で「国際連盟大弾圧の下に」と被害者意識を肥大化させているあたりが、当時の雰囲気を映し出します。(続)
日本がかつて攻め込んだ国をあげて、攻め込まれると煽る。9条さえ変えれば国が守れるという方こそ、9条信者とお呼びすれば良いか。 戦争の大きな要因は貧困と差別だと思っています。日本は憲法前文の精神に則り、その解消に力を入れ世界をリードすることこそ一番の国防と思います。
最近、珍品の発掘が続いていて、今回も85年前そのままの代物。1937(昭和12)年10月5日、長野県教員互助会が出征する会員(教員)に送った記念品一式です。武運長久を祈る日の丸と慰問金10円。戦争ができる国というのは、こうしたシステムが張り巡らされていて、兵士を送り出せるようになっていると実感。
今日はこどもの日、端午の節句ということで、日中戦争開戦翌年、84年前の今頃の1938(昭和13)年の端午の節句用に作られたとみられる兵隊人形です。万里の長城風の絵をバックに、右大臣あたりがつけていたであろう刀を持って…。五人囃子からの転身でしょう( ´・ω・`) (続)
戦前日本、特に昭和初期は庶民が軍隊に過剰な万能感を持っていたけど、今も変わっていない人がけっこういるのだなと感じました。
64年前、1958(昭和33)年2月発行の月刊誌「丸」を入手。真珠湾攻撃の紹介の冒頭「…日本の奇襲が一応成功したのは、米国民を戦争に曳きずりこむために画策したルーズベルト米大統領の陰謀であった、等々といはれてはいるが…」とあり、そんな陰謀論がこんな昔からと驚く。逆に代わり映えもしないと。(続
戦時下、列車に乗るにも理由がいりました。軍需優先で民需に当てられないから。 こちら、長野の実家への疎開相談という理由でやっと警察から出してもらった証明証。でも、切符の発売日にこれを手にして並んで買わねばなりません。発行予定数が終われば証明があろうと、切符は出してくれませんでした。
90年前の今日、1932(昭和7)年5月15日。5・15事件発生。新愛知の号外は、まだバタバタ。翌日朝刊は首相重体とあるけど、亡くなっていました。 犯人たちは動機を褒め称えられてるんですよね。海軍側公判の号外。力を振り回す事こそ良しとして、議論し詰めることを否定する国民性に一番問題があったか。
77年前、1945(昭和20)年の今頃発行された主婦之友5月号。表紙は炭鉱で働く女性。必勝の戦場生活とし2.26の斎藤瀏の詩で鼓舞し、日本人は復讐心が旺盛と刷り込み、手榴弾の練習をしろと。婦人雑誌もここまできましたよ。
学校教育についての論議が出ている中、こちらは長野県和国民学校の生活指導研究。皇国民の錬成として、特に皇国民の自覚確立に力を入れています。皇運を扶翼し天皇支配の絶対化と天皇の為に死ねる軍隊育成に役立てたことでしょう。 全ての基礎は教育勅語。今は教育基本法に注目を続けねばなりません。