8月に集中して戦争の話題を掘り起こす「8月ジャーナリズム」は、それなりに意義があると思うけど、戦争被害者意識を広める恐れもある。出来れば、日中戦争開戦から太平洋戦争突入への流れを知り、戦争がなぜ行われたかを学ぶ「7-8月ジャーナリズム」が生まれてくれたらいいなと思っています。
良く内容が分かる見出し。
70年代には反戦の空気がないとかいう妄想を目にしたので買ってしまった資料てえ1968(昭和43)年だった(´・ω・`) 当時でも戦争を忘れちゃいかんという思いが高校生向け雑誌の付録でこういうモノを付けたんだろうな。 村から海軍志願兵に出る青年の1941年の村内が凄惨だ。こりゃやらかすわ。
日本出身の米国拠点研究者ノーベル賞受賞が報道された翌日、長野県の国立天文台野辺山宇宙電波観測所の無償利用が交付金削減など予算低下や老朽化で課金制になるとの記事が出るのは、今の日本の研究環境を象徴している。所長は「発表できる論文が減ってしまうかもしれない」と科学の二流国化懸念と。
物資不足の象徴、黒い牛乳瓶。さまざまなガラスを混ぜて再生を繰り返すうちに、どんどん黒くなっていったというもの。透明なガラスが貴重な生活って… (´;ω;`)
戦記物とか読んでいると、殴られて口の中を切る、顔の形が変わる、といった描写が普通に出てくる。どんな勢いで殴っていたか。そしてその調子でビルマとかで現地の人を殴っている。日常を持ち込んだだけだろうけど、これで好かれるなんてことはないでしょう。
基本的人権を削除って憲法改正の怖さが分かっていない。人を権力者が自由に拘束し処分可能になるってことだよ。生存権も何もかも権力が認める範囲でしか認められないってことだ。 国民や国民の代表が終了させられない緊急事態条項って、与党政治家だけでずっと緊急事態を続けられるってことだぞ。
虚偽の発表を積み上げるとどうなるか。こちら1944(昭和19)年12月9日の毎日新聞。1年間の戦果として空母37隻、戦艦7隻、巡洋艦49隻など撃沈。潜水艦なんて168隻も撃沈したことに。特攻隊の出動が始まってから、より数字が水増しされていきます。これでは、誰も正常な判断ができないでしょう。(続)
アベノマスクの廃棄を政府が決めましたので、この間の経過も併せて改めて記録しました。これからもアベノマスクのおかげでマスクの値下がりがあったというご意見が出てくるかもしれませんが、それならばここに示した内容を上書きできるような事実を示す必要があると思います。 sensousouko.naganoblog.jp/e2486866.html
読売新聞が大阪府と連携してすぐに、維新の大阪市長電話公募の記事と、大阪知事筋トレの記事が出たのは象徴的でした。 不祥事も取引材料になるだけだろうと、容易に想像ができます。 首長も政治家だし、選挙の時期を考えなくても、こうした取り上げ方は慎むべき。戦時下の「我らが東条さん」と同じ。
NHKの報道問題、完全に「そういうもの」という視点で素材をねじ曲げて作ってるのが一番危険。デモを語るのになぜ現場に行かないのか。それは台本通りにいかず都合が悪いからだろう。まともな報道関係者なら、デモで日当っていう言葉だけでスクープと感じ、その為の取材を直ちに始めるはず。
私が戦時下の資料を収集して研究しているのもまさにこれで、戦争や戦時体制というものは「軍が悪かった」で済ませるべきではありません。政治や教育などどれがどんな影響を与えたか知る事が、そうした状況の再現を阻止する力になると思っています。今と同じ…と思える場合、特に注意が必要かと。 twitter.com/dog2shiba/stat…
歴史は終わったことの記録。出来ることは、歴史から学んで先にどう進むかということ。過去を気の沿うように書き換えようとしたところで、未来に一歩も進まない。過去に囚われるとはそういうことだ。
歴史戦とかいうけど、それが通ったとして得るものは何か。近隣国との緊張悪化(当然、拉致問題解決が遠のく)、アジア各国との関係冷却を始めとした国際的孤立。その結果、経済停滞、人手不足で必要な社会的な支えがなくなり(外国からも来て貰えない)福祉制度崩壊。疑心暗鬼の軍備強化で塗炭の苦しみ。
歴史戦なるものが外国から仕掛けられたから自衛でという方がおられるが、仮にそうだとしよう。その対抗策が「新たに作る日本政府の認識する歴史」であって「国際的に通用する研究された歴史」じゃないところが、そもそも負けている。対外的に勝てない戦をなぜするか、国内ウケ狙いとしか思えない。
89年前の今日、1933(昭和8)年2月20日、小林多喜二死亡。正午ごろ逮捕され3時間に及ぶ拷問の後、午後7時45分死亡。治安維持法による死刑はないと言われるが、こうした拷問による「死刑」は100人を超えるとも言われています。こちら小林多喜二の「蟹工船」後編掲載で発禁の戦旗(1929年6月号)です。(続)
小林多喜二の拷問については千田是也が書き残していて「内出血で紫褐色に膨れ上がった両方の股(もも)、これも靴で蹴り上げられた痣のある睾丸、焼火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み」「警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手を使って死体解剖を妨害した」。(続)
小林多喜二を虐殺した特高警察の3人は、戦後も何の罪にも問われず、天寿を全う。 過去のことじゃない。入管の問題を見れば、権力を行使する側の意識がよく分かります。権力を傘に来た人間の危うさがあるからこそ、取り調べの可視化は大事ですし、代用監獄の問題も解消しないといけないでしょう。
小林多喜二が特高警察に虐殺された1933(昭和8)年の2月には、長野県で「赤化教員」の一斉検挙が4日から行われていました。100人以上が検挙され、9月にようやく記事解禁となって世の中に伝わります。いわゆる2.4事件です。こちら、9月15日発行の読売新聞夕刊です。(続)
これは昨日流すべきだったやつですが、78年前の1944(昭和19)年2月23日発行の毎日新聞。「竹槍では間に合わぬ」として海軍の飛行機整備を強調し、東条総理が激怒して発禁にした「竹槍事件」の紙面です。社説も「必勝の信念だけで戦争には勝たれない」と。 政府の戦争指導に疑問を示しただけで発禁(続)
この発言、先日ツイートした竹槍事件の懲罰召集と同じ発想。現実に効果があるかどうかではなく、こころよく思っていない勢力を叩くため戦争を利用している。 twitter.com/hashimoto_lo/s…
84年前の今頃、日中戦争下の1938(昭和13)年の雛祭りに合わせて作られたとみられる変わり雛です。皇軍万歳の旗と、女子青年団の見送りで戦地へ。 長野県軽井沢町の出物で、当時の信濃毎日新聞に同型の変わり雛が店頭に出ているとありました。 子供の幸せを願うお雛様がこんなになって(´;ω;`)
77年前の今頃、1945(昭和20)年3月の長野県丸子町常会徹底事項。飼い犬を差し出す指示が出ました。毛皮は軍需に、内臓は薬品に役立てるから、11日に警察署裏へ連れてこいと(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`) 忘れちゃいけない。権力者は、庶民のささやかな生活なんて考えちゃいない。
77年前の今日、1945(昭和20)年3月9日の深夜から明日未明にかけて大量のB29が東京に侵入し、空襲しました。こちら、当時ばらまかれた焼夷弾と同じ型のものです。これだけでも1.3キロ。実際は焼夷剤も詰まってもっと重い。これが雨のようにと。そんな攻撃と並び、日を消せと命じた国の姿勢が犠牲を…
戦時下、国民は等しく苦労していた、なんてことはなく、官僚が国の設備を使って気ままにしていた記録がこちらです。武井武雄さんが残してくれて感謝。 twitter.com/himakane1/stat…