私はこれからの時代で大事になる概念が「鍛える」ということだと思っています。もうそんな気合と根性みたいな話は流行らないと思われるかもしれませんが、それでもこの鍛えることの重要性は時代を超えて普遍的だと思っています。なぜならこれが唯一の才能以外で自分を高められる方法だからです。
私は医療に詳しくないので間違いを指摘していただければと思いますが、日本の医療は変化の時を迎えているのだと思います。アメリカに住んだことがあると日本の医療のアクセスのしやすさ、安さ、質の高さを改めて認識します。しかし、同時に一旦モラルが崩壊すると大きな歪みが生まれます。
人生には意識して気をつけるべきことがいくつかありますが、忘れられているけれども重要なことに「鬱」があります。鬱病になり社会復帰をすることももちろんできますが、心は以前のようにはおそらくなりません。むしろ以前に戻れると思ってしまうこと自体が復帰を阻むと私は考えています。
私たちの国は概ね勤勉で継続する力が強いですが、継続することの大事さは伝えても、何が大事なことかを議論することの大事さは伝えません。ですからとにかく続いてるのだから、始まったのだからなんとしてでも続けようとなりがちです。しかし、続けることが必ずしも正しいとは限りません。
運動神経がいいとはつまり無意識の世界の操作がうまいということである。
chatGPTが私たちのような一般の人間に問いかけているのは「人工知能は人間のように考えているのか」ではなく「私たちは本当に考えているのか」なのだと思います。
しかもこれが同じ人間なんだから向き合って話しましょうというリスペクトから来ている感じがするのがなおいい。
少し調べて世界陸上現地の状況がわかりました。国際陸連により新型コロナウイルスの疑いがある場合検査を行い、陽性であれば隔離措置を取ることが義務付けられているそうです(例えば37.5度以上あるとか、体調が悪いとか)。ただ、強制的な検査は行われていないのであくまで自己申告だそうです。
まず判断軸で私たちが何で判断しているかというと ①ブランド ②金額 ③テーマ ④広がり ⑤思い ⑥貸し借り です。人によって優先順位が違いますが、私は③①⑤④⑥②です。だからテーマもない、ブランドもない、ただ誰でもいいからアサインしようとしているところからは受けません。
運動はやった方がもちろん良いですが、日常を改善するとかなり変わると思います。特に、姿勢が悪い、食べる順番を間違えている、余計な我慢をし過ぎてもたなくなっている、の三つはよく見かけます。強すぎる抑圧を維持することはできません。これならいけるかなというペースを作り出すことが大事です。
私たちはもっと自由になりましょう! twitter.com/MHLWitter/stat…
最近高齢男性が増えている一つの理由には、 ・個人に最適化して推薦するシステムをよく知らない ・テレビで育った世代 があると言います。つまり、自分が一度陰謀論に関わる動画を見たから関連動画が増えているのですが、そのことを知らずみんなが同じものを見ていると思い込んでいるのが一点です。
「陸上の大会をもっと盛り上げたい」と、この2,30年ずっと選手同士で話されてきました。ですが、なかなかそれがうまくいきません。強い選手が出ると注目され少し観客が増えるのですが、その選手が引退したり活躍しなくなると観客が減ってしまいます。少し陸上から離れた身として三つの理由にまとめて考… twitter.com/i/web/status/1…
次の模倣犯が現れた時に私たちが今何をしているのかに気がつくのだと思います。 山上容疑者の銃弾で変わった日本は「とっくにテロに屈している」という現実 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン diamond.jp/articles/-/309…
人生のルールはたった一つ 「あれは私の人生ではなく、これが私の人生だ」 ということを常に忘れないこと
世の中のほぼ全ての人は「人はいつか死ぬ」ことを理解しています。どのように人生を終えるかは人生を一つの物語と捉えると大変重要なことです。ところがいかにして生きていくかという方法論は世には溢れていますが、いかにして人生を終えていくかという議論があまりにもなされていないように思います。
体育の授業でスポーツ嫌いになった方が多いと伺って、個別には大変酷いことがあったのだと思いますが、全体としては ・全ての子供がスポーツを好きになるように ・カリキュラムに沿って技能を習得するように という縛りの中で体育が行われていることは考慮したほうがいいと思います。
多様性を認めるということは同じものを見ても同じ結論に至るわけではないということをよく理解することだと思います。ですから意見が違う相手に対しよく勉強してくださいとアドバイスしても、相手が勉強するほど意見が合わなくなっていくことが起こります。
体育の授業でスポーツが嫌いになったという声が多くありました。いくつかあったご疑問に答えつつ、では体育はどうあるべきなのかをいつも通り現在の文脈を無視してややラディカルすぎるかもしれませんが提案してみたいともいます。私は体育の目的は「自分を扱う知識と技術の習得」だと考えます。
“女性が夜道を歩いて痴漢に会う場合明らかに問題なのは痴漢の方ですが、それでも私たちは娘に「夜道を一人で歩いちゃいけない」と教えます。なぜなら社会が完全に倫理的になることはあり得ず、身を守るのは「実利的なもの」だからです。” @daijapan note.com/daitamesue/n/n…
現実から考えて全て子供がスポーツを好きになるはずがありませんし、技能の習得をするには教えなければなりません。楽しいスポーツは、 ・好きなことを好きなようにやる ・上手くなってもならなくてもかまわない の中にあるので、そもそも体育の仕組み自体が楽しくすることに向いていないのです
私は「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という言葉に励まされた世代です。スポーツの現場でも厳しい局面で諦めなかったことで勝負が覆る瞬間を見てきました。一方で、何かに熟達し経験を経ていくと、勝敗が決したことを察する瞬間がどんどん前倒しになります。
同調性が高い社会では、こだわる人の才能は潰されやすいです。こだわる人はとにかく自分がダメだと思わず、自分を変えないままにうまくやれる場所探しをすることが大事です。こだわってしまうと思っているかもしれませんが、多くの人はそこまでこだわりきれません。こだわりは集中で、集中は才能です
スシローでの出来事が問題になっています。この行為は擁護するものではないですが、ふと自分の人生で思い出すことがありました。私は昔から「ノリ」というものに敏感でした。どんなに小さい集団でもノリがあります。このノリに乗ることは集団にいつづけるための大事な要素です。