あまりにも世界が変化していく速度が早くなり、正直申し上げてついていけない感覚を持ち始めています。自覚したのが最近だっただけで、おそらく随分前からついていけてなかったのでしょう。今起きている変化は加速度的でしょうから、一度追いつけなくなると私の人生ではもう追いつけないと思います。
「陸上の大会をもっと盛り上げたい」と、この2,30年ずっと選手同士で話されてきました。ですが、なかなかそれがうまくいきません。強い選手が出ると注目され少し観客が増えるのですが、その選手が引退したり活躍しなくなると観客が減ってしまいます。少し陸上から離れた身として三つの理由にまとめて考… twitter.com/i/web/status/1…
コロナウイルスってなくなるとかそういう類のものではなくて、ある程度は対処法はできていきますが、完璧になくなることは永遠にありません。というわけなのですが、国民のみなさまどうしますか?と、問いかけた方が分かりやすいと思います。
自分取り扱い説明書を作る時、重要な三つの軸は ・快不快 ・受け取り方の癖 ・得意と不得意 です。ざっくり分けてしまうと受け取り方の癖によって情報が取捨選択され、好き嫌いによってバイアスがかかり、得意不得意によってアウトプットの質に差が出るというものです。
少し調べて世界陸上現地の状況がわかりました。国際陸連により新型コロナウイルスの疑いがある場合検査を行い、陽性であれば隔離措置を取ることが義務付けられているそうです(例えば37.5度以上あるとか、体調が悪いとか)。ただ、強制的な検査は行われていないのであくまで自己申告だそうです。
「わかる」と「できる」は違います。わかってもできるとは限らないし、できてもわかっているとは限らない。
一年半前の声明です。 屋外運動時のマスクや口鼻を覆うものの着用は、基本的には推奨いたしません(熱中症や呼吸不全の危険が高まる可能性があり、海外では死亡例もあります)。 digitalpr.jp/r/39855
島根県の部活動の二週間停止のことについて様々な人とやり取りして少し整理ができたので書いてみます。まず、それ以外の活動と比べて部活動や子供の活動が感染拡大に大きく影響しているというデータはおそらくありません。それ以外の人が集まる活動と同じ程度には影響を与えています。その上で、
境目はこだわりの範囲ではないかと思います。中心と周辺の関係を理解し、中心だけに意識を向けられる人はうまく行っているのですが、周辺も含めてこだわってしまうとうまくいかない傾向にあります。全部にこだわると全部をコントロールしなければならなくなるので、本人が疲れますし周りも疲れます
後から聞いてみると、同じ状況で親族が〇〇にハマって、〇〇に傾倒して、という話をたくさん聞きます。頭の良し悪しというわけでもなさそうです。頭がいい方は好奇心が強く新しいものに興味を持つし、一度納得すると理論を信じます。一度信じればあとはネットのバブルの中でどんどん加速します。
スポーツ嫌いの根源だから体育を廃止して仕舞えばいいという意見があります。では、そうしてしまうとどうなるでしょうか。例えばスポーツが自由市場になっている米国では、親の経済格差が運動機会の格差になり、肥満率(これは食も関係しているので複雑ですが)につながり寿命格差につながっています。
体育の授業でスポーツが嫌いになったという声が多くありました。いくつかあったご疑問に答えつつ、では体育はどうあるべきなのかをいつも通り現在の文脈を無視してややラディカルすぎるかもしれませんが提案してみたいともいます。私は体育の目的は「自分を扱う知識と技術の習得」だと考えます。
高齢化社会ではあの頃を思い出す「思い出ビジネス」が盛んになります。
目の前の仕事もあり、家庭もあり、子育てもあり、地域の付き合いもあり、キャリアもあり、親の介護もあり、というなかでダイエットだけに注意を向け続けられる人はなかなかいません。その中で継続するには、妥協しまくってその中でもこれならなんとかという現実解を見つける必要があります。
自死は本人の選択のように見えているだけで、社会が追い込んだ側面があることを我々は認識するべきだと思います。コロナ対策とは誰の命を優先し誰の命を犠牲にすることを選ぶのか、ということです。私たちは気づかないふりをするのではなくそのことをきちんと認識して選択すべきだと思います。
私の経験でとてもおすすめなのが「直接相手に聞く」というものです。日本では相手の気持ちを慮ったり、直接言えば角が立つと考えたり、自分で意見を言ってリスクを取ることを嫌う傾向にあります。ですので、何か思っても言わないか、周辺に伝えるか、または先生に言いつけるかの三つが選ばれがちです。
格差は悪いことではない。差があるから意欲が生まれる。ということが資本主義の前提になっています。どの程度の差を認めるか、世代を超えた差を認めるかなどの幅はありますが、格差自体は否定していません。格差がない世界は、結果を出す人と出さない人の報酬が変わらないということです。
スポーツが「ただ」だったということは、誰かがそれをかぶっていたわけです。
具体的には以下の対応がいいと思います。 ・担当者を決める←これが一番大事! ・本人の意向を聞いて、各社担当の方に連絡。シャットアウトではなく良い関係を作ることを目指し、取材は担当者に集約。 ・合宿、入学、初試合、などメディア側が撮りたい試合はきちんと担当者から連絡する。
私たちは小学校のレベルから、あるルールのもとで生活することを経験します。社会全体にもルールがありますからルールを覚えてその範囲で生きていくことは社会生活を営む上で大事なことです。一方で、ルールそのものが時代と合わなくなることもあり、それは変更していく必要があります。
始めた以上続けなければならずやめられないなら始めることを躊躇するのは当然です。実際のところ挑戦を促すなら止めることを同時に奨励すべきです。大事なのは挑戦するからやめるのではなく、やめるから挑戦できるという順番だというところです。先にやめるがあり、そして挑戦がある。
集団を眺めていると個々人の振る舞いは以下のようになっていて、うまく行くかどうかは比率の影響を大きく受けていると思っています。 ①提案者 ②実行者 ③批判者 ④傍観者 例えば私は①か③の性質が強いのですが、こういう人間だけで集まると議論が多く理想も語るけど誰も実行できないとなりがちです
問題なのはサラリーマンなんですよ。今まで何十年と給料の3割も天引きされ続けた挙句に「はい!もう社会保障おしまい!解散!これからは自分で何とかしてね」って言われて、はいそうですか、って納得するんですかね? 民主党小川議員の消費税25%発言 jyoshige.livedoor.blog/archives/10209…
私のまた単なる勘ですが「他人を物的に扱う癖」がつく企業文化というものが世の中にはあって、この癖が一旦こびりついてしまうとどんなに隠しても言葉や行動の端々にそれが表れてしまい、現代では問題を引き起こす原因になってしまっていると感じます。
つまりやめられないということは、日々の継続に耐える力が強いですが、本質を考えて選択する力は弱いということになります。なぜなら本質を考えることはシビアな選択が必ず出ます。どちらを諦めるかという問いです。この苦しさに耐えられず「とりあえず持ち帰って明日考えよう」になります。