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が選ばれ、子供をもうける話が進められたことを、はっきりと描いたのは、今回が初めてのことではないでしょうか。側室といえば、男性が好みの女性を選び、子供を産ませ、正室はそれを黙認するしかないという描かれ方がずっとされてきたように思います。今回、それとは違った方法で、側室が家康の閨房に
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NHKから告知がでたようですね。来週7月14日の英雄たちの選択に出演します。なんと千田先生とご一緒に現地調査も行いました。よろしく御願い申し上げます。 twitter.com/jYGqnUZ4zgsmqK…
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告知が出ましたね。今週末の土曜日、どうぞよろしくお願い申し上げます。呉座氏と久しぶりの再会。どんな話が飛び出すか、お楽しみに。 twitter.com/ShokoHARUKI/st…
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矢作川水運、塩の道、東海道やその枝道などを押さえる位置にありました。家康の本拠岡崎城よりも繁栄していた可能性があるのです。今回は、その繁栄ぶりを、セットやCGで表現できていたと私は考えています。大河で、地方の一向宗寺院の寺内町が、本格的に表現されたのは初めてではないでしょうか。
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【お知らせ】『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版は、現在品切れとなっており、全国の紀伊國屋書店でも2冊しかないそうです。だからあれほどもっと刷れって言ったのになぁ、と思っていたら、連絡が来ました。緊急会議を開き、なんと3刷をするそうです。あと一回、買い場ば回ってきます。これを逃したら
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信長が数度にわたって三河吉良に鷹狩りに来ていること、そして岡崎に立ち寄っていること、また天正5年12月と同6年1月のわずか一月に二度も来ている異例さ、そしてその直後から不穏な動きが始まっていることには言及されていない。ここが本多説以後のキモ。 twitter.com/KambaraShizuok…
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、永禄5年1月15日のことについては、今のところほぼすべての研究者は、その実在を否定しています。その理由として、『三河物語』『松平記』という戦国期に近い史料には、この重要な事実が記されておらず、江戸時代の編纂物に初めて登場すること、当時の家康に岡崎を留主にして清須を訪問する情勢にはな
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また「国家」は、戦国大名の領国そのものを指すという意味がありました。例えば、「朝倉孝景条々」に「諸卒を下知し、国家無恙候、於子々孫、守此旨候はは、日吉八幡之御教と混しく思はれ、国をたもち候はは、朝倉名字可相続」(第16条)とあります。朝倉孝景は、「家臣に命令を下し、国家(領国)を問
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このうち、永禄4年2月の和睦は、新行紀一氏の研究により、明確となりました。この時両者は起請文を取り交わし、領国の境目を決めていたようです。和睦の仲介者は、水野信元でした。このあたりの出来事を、今回は清須訪問の時のこととしてドラマでは描いています。ところが、家康が清須を訪問したという
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ました。邪教批判を恐れた高田専修寺(高田派)、仏光寺(仏光寺派)は、本願寺と混同されることを不快として、「無碍光宗」を拒否し「一向宗」を自称するのです。いっぽうで蓮如は、「無碍光宗」の宗名には肯定的で、戦国期において本願寺派や一向一揆を「無碍光宗」と呼ぶ事例も少なくありません。
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が詳しく紹介されており、史料の状況がまったく変化していない現状では、今も貴重な成果となっています。本書には、明治生まれの人々が語り継いできた人質処刑の話や、葬られた塚の跡などの証言や調査の模様が書き込まれており、真相追跡の努力が偲ばれます。もう、証言者がいなくなってしまった令和の
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異称)に由来するもので、特に蓮如が「無碍光本尊」を信仰の核としていたことから、「一向宗」と並ぶ呼称となっていました。だがこの呼称については、京都五山の禅僧らが、「無碍光宗」を中国の白蓮教徒になぞらえ、蓮如と本願寺を邪教として批判したことから、一向宗の内部で対応がわかれることとなり
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いたと思います。
ここで登場する夏目広次は、初期の家康を支えた重臣でした。かの文豪夏目漱石の祖先といわれています。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』など、幕府の諸記録では、「夏目吉信」とされてきました。しかし、永禄12年12月23日、家康が紀伊国熊野山実報院に、遠江国山野庄土橋郷
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近い動きがあったのも事実です。織田は、桶狭間戦勝後、永禄4年4月、西三河の高橋郡にある梅ヶ坪城侵攻し、伊保城、矢久佐(八草)城などを攻め、遂に高橋郡(愛知県豊田市)を制圧しています。これは『信長公記』首巻に記録されています。高橋郡が信長自ら率いた軍勢によって制圧されたことは、
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御堂関白で著名な藤原道長は、倫子・明子という二人の「北政所」(正妻)が、豊臣秀吉も少なくとも五人の正妻(杉原寧〈北政所〉、浅井茶々〈西の丸、淀殿〉、京極龍子〈松の丸殿〉、織田氏女〈三の丸〉、前田摩阿〈加賀〉)が、関白豊臣秀次も二人の正妻が存在したことが
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なお、都市の定義ですが、①一定の区域における人口密度が極端に高いこと、②居住者の出身地が多様であること、③居住者の職業が雑多であること、④居住者の職業が、商人、職人などの割合が高いこと、などを想定しています(これは私個人の研究による実感です)。
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よろしくお願いいたします twitter.com/gentoshas/stat…
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今川氏真という対立の構図を、いっそう引き立たせる効果を狙っているのだろうと、私は解釈しました。そこで、どの港がいいか、考えました。そして、中世の太平洋水運および三河湾水運の担い手の一つであった知多半島の南端師崎に白羽の矢を立て、制作陣に提案したところ、採用されたものです。
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どのように位置づけるかという、脚本の古沢さんの考え方を知る手がかりになる回でもあったと思います。設定は、永禄6年夏とあります。元康から家康への改名時期については、確実な史料では判然としません。『徳川幕府家譜』によると、改名は、永禄6年7月6日とされています。家康の発給文書から追って
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甲斐国でも、本願寺派を「無碍光宗」と呼ぶ事例が存在します。『勝山記』享禄5年条に「ムケカラ(ウ)宗」が法華宗と争ったことが記録されているのです。これは、山科本願寺が法華一揆と六角定頼軍によって没落させられたことを指しており、武装蜂起した本願寺門徒(一向一揆)の呼称であることが確か
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古本が高くなるから、話題にするな、という大学生❓️院生❓️の意見を拝見したが、アタクシたちの時代は、手が出ないほど古書が高かった。学生は、時間があるんだから、小まめにコピーしなよ。実物は、いつか買えるから。現物を架蔵している図書館を探して(アタクシたちの頃はネットなんざない)、
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『朝野旧聞襃藁』『徳川諸家系譜』などによるものです。裏付けとしては不安が残るものなのですが、これは事実を伝えている可能性が高いのです。というのも、永禄6年秋に勃発した三河一向一揆に際して、水野信元が援軍として家康のもとに来ていることが指摘されているからです。対今川戦でも、水野は