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が一般的でした。戦国期の各国には、複数の六斎市が分布しており、毎日どこかで市が開催されている状況でした。しかしほぼ毎日店舗が営業するというのは、まずなかったと考えられます。武田氏の本拠甲府でも、最大の商業地域は八日市場と三日市場でした。ただ、現在の甲府城跡の場所は、当時一条小山と
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なんと、時代考証だけじゃなく、大河ドラマ「どうする家康」に、ちょっとだけ出演することになりました😆😆#エイプリルフール
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(康忠)殿宛には「岡蔵家康(花押)」(岡崎蔵人佐家康)とあり、この書状については、永禄6年から同9年という時間幅での年代比定に留まっている。もしこれが、永禄6年のものならば、改名時期はさらに限定されることになり、『徳川幕府家譜』の7月説が強まる可能性があります。残念ながら、確定はでき
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みると、永禄6年6月日付の松平三蔵(直勝)殿、清水伝一郎殿宛は「蔵人元康(花押)」、永禄6年10月24日付の松平亀千代(家忠)殿、松井左近(忠次)とのへ宛は「家康(花押)」とあり、永禄6年6月から10月の間に「家康」へと改名したことがわかる。なお、年未詳8月28日付の長澤浄賢(親広)・同源七郎
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なられましたか?実は、第一稿では、「水野殿に××あたりの港をお借りし」とあって、地名が決められておりませんでした。私は第一稿を拝読したときに、駿河から元康の配下が瀬名たちを奪還したら、すぐにそのまま三河の港に入ればいいのに、なぜあえて水野信元を頼ろうというのか、と考え込みました。
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【お知らせ】東京堂出版の『武田氏家臣団人名辞典』ですが、これまでの増刷分がすべて蒸発してしまうほどの売れ行きにビビりまくった同社が、遂に異例の4刷を決断したそうな。だからもっと刷れって最初から言うてるやんけ😑🙄
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【お知らせ】本日、夜10時より、NHKEテレ放送の「知恵泉」に出演します。みて下さいね🙇🙏
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平山優のHPが出来ました。仕事のご依頼は、こちらからお願い申し上げます。
local.ponycanyon.co.jp/hirayama_yu/
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小山田圭吾氏と、従兄弟の田辺晋太郎氏のおぞましさは、言語に絶する。「正義を振りかざす皆さん、良かったですねー!」という発言には、小山田氏の非人間性への理解がないどころか、それへの批判を受容できぬ異常性が認められる。物事の思考に、血の繋がりによる近さがあるかどうかは定かでないが、
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今宵はここまでにいたしとうございます😆また次回!
#時代考証の呟き
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私を侮辱したにも関わらず、謝罪すらなくダンマリをきめこみ、ツィートを削除し、逃亡したを人。証拠は確保してあります。私は許しません。 twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…
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家康は石川家成に命じて重治の遺骸を探索させ、その死を嘆いたといいます。そして上和田に手厚く葬ったと記録されています。諸書によると、土屋長吉重治は享年22。『寛政譜』の土屋重治は享年45。同一人物には見えないのですが、今回は著名な逸話を採用し、ドラマに織り込んでいます。
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よくある誤解。三河の国衆奥平氏の通字は、「貞」ではなく「定」。奥平定勝、定能などとなる。「貞能」なんかは、系図か軍記物のみで、当時の文書ではすべて「定能」。これは2010年代初めには明確に指摘されていた。要注意ですね。 #時代考証の呟き
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アタクシ、来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の援護射撃と、山梨県の観光を盛り上げるべく、「アタクシと歩く甲斐源氏ツアー」やろうかなと思いますけど、どうかなぁ🤔
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アタクシが懸命に調査して、不充分であっても、とりあえずの戦没者リストを作ったのは、長篠合戦の武田方戦没者(『長篠合戦と武田勝頼』所収)と、勝頼とともに落命した男女の名簿(『武田氏滅亡』所収)です。一人ひとりの戦没者を拾い上げながら、ご冥福をいのらずにはいられませんでした。
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施したところ、飛距離は100メートル以上、そして夜間での火矢は「真っ赤な炎を吹きながら飛翔する火矢は真っ暗ななかではっきり視認できた。よって、飛行方向をきちんと制御することができると夜の暗闇で遠くに味方に合図する手段としては大変優れていることがわかった」と報告されています。これらは
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の中から選抜された女性のことです。つまり、「妾」は正妻の家臣(奉公人)という立場でした。
今回、家康の「側室」=「妾」を、正室築山殿が選定したというのは、当時の実態に沿うものです。もちろん公募というようなことはなかったでしょうが、「側室」選びは推挙する人物がおり、それを家康家臣が
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【お知らせ】拙著『天正壬午の乱増補改訂版』戎光祥出版ですが、この度増刷がかかりました。何と4刷です。お買い上げ頂いた皆様、ありがとうございました🙏まだの皆様は、ぜひお願いします。徳川家康が飛躍を成し遂げた、苦しい戦役の全貌がわかりますよ。「どうする家康」の予習にぜひ‼️
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外されていました。また、棟別を負担すべき家は、村町の内部であらかじめ決められていました。それは、村町を構成する本家と呼ばれる階層で、新屋(新家とも、一族や本家に家の創設を認められたもと奉公人など)は負担させられることはありませんでした(但し、戦国時代後半には大名側の要請で彼らも
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真田丸の時は、ノーリアクションだったよね。でも視聴者の皆さんは、観光地を探してまで来てくれたんだよ。何やってんだ、山梨はっていわれてたじゃん。今回はやろうよ‼️お願いだからさ🙏
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遂にキター-!!美しくも凜々しい勝頼。楽しみですね。 twitter.com/nhk_ieyasu/sta…
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との合戦は、苦戦を免れない状況でした。このことを意識した脚色が、今回は随所になされています。もちろん、「8月某日、松平・吉良連合軍、石ヶ瀬川合戦敗北、戦死者百数十名」などは脚色です。
また、突如、織田の援軍が刈谷に現れ、松平軍が撤退するという話は、フィクションです。ただ、これに
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当時の家康は、西三河の岡崎領を中心に、譜代や周辺の松平一門を何とか麾下に押さえているのがやっとで、東条吉良義昭や幡豆小笠原氏などに合力を依頼し、力になってもらっているという状況でした。なので家康単独の兵力は、水野とは兵力は互角か、少ない可能性があるのです。このため、水野氏ら織田方