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ただ、家康の旗印は、浄土宗の教えに由来するのは間違いないので、地元に伝わる逸話を大事にして、古沢さんが脚色したのです。ここに榊原康政をもってくるとは、と思いました。『三河物語』などでは、岡崎城に今川方が在城していたので、遠慮して大樹寺に入り、後に正式に城請取を行ったとあります。
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戸田は、家康を永楽銭千貫文(百貫文とも)で売り渡したのだという。このことについても、近年まで疑われることはありませんでした。しかしこの逸話も、近年疑義が出され、ほぼ否定されつつあります。
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家臣の一人です。本多正信は、本多忠真、忠勝らからは「我ら本多家とは縁もゆかりもない輩!」「偽本多じゃ!」などいわれたい放題でしたね。これは、忠真を始め、多くの譜代家臣と本多正信が不仲だったということを印象づけるための脚色です。本多正信と本多忠勝は、祖先を同じくする同族です。系譜類
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大名と結んでいた従属関係を断ち、新たな庇護者と手を結ぶのが当たり前の行動原理でした。それは、今川氏からみると「逆心」「謀叛」「離反」であっても、国衆ら当事者からみれば「頼りない」「頼みにならない」「当てにならない」であったわけです。こうした見方は、国衆論をリードしてきた黒田基樹氏
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大将」でした。これらは、すべて後世の創作です。山本勘助を「軍師」としたのは、管見の限り、享保6年(1721)成立の浄瑠璃「信州川中島合戦」(近松門左衛門作)が最初で、これ以後、「武田信玄の軍師山本勘助」が定着していくのです。今回は、一揆側が家康軍に善戦した理由の一つとして、優秀な
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は、古沢さんのオリジナルです。なお、『三河物語』などでは尾張で人質となった幼い家康は、熱田神宮大宮司加藤順盛が預かったとあり、それが今も伝承されています。ただ、最近、家康は織田へ人質には行っていないのではないかと考える研究者も出てきました。これらは今後、研究が進み、なるほどと思う
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この織田信秀による岡崎攻略という事実こそ、近年明らかになったものです。これは、天文16年と推定される9月、越後本成寺(三条市)の僧侶日覚の書状に「岡崎は弾江かう参の分にてからからの命にて候」(松平広忠は、織田弾正信秀へ降参し、命からがら助かったそうだ)とあることから判明しました。
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16日に岡崎市で開催される、大河ドラマ「どうする家康」のトークショー、倍率3倍だったんだ。スゲーな。気合い入れて行かないと。あ、でも磯統括と全然打ち合わせしてないわ。ぶっつけ本番やな😆😆どうするアタクシ😆#どうする家康
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送られ、今川が取り返しに動いたことがわかるのです。ドラマで、この時、家康が処刑されそうになったとしたのは、そうした動きがあってもおかしくないと思い、古沢さんが脚色したものです。今回のドラマでは、『三河物語』『松平記』以来の通説にも配慮しながら、織田に広忠が家康を人質に出すことを
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本を読まない、文化を軽視する人間の所業でしかない。どうやって本を検索するのか❓️🙄、どうやって見るのか❓️🙄税金使ってこのザマはやめて欲しいね。 twitter.com/NakanoLib/stat…
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ここは、馬場美濃守信春戦死の地に設置されている看板ですね。かつては、確かにゴミが散乱していてひどいと思いました。去年の2月に行った時は、かなり綺麗になっていました。 twitter.com/gijyou/status/…
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次いで蜂起し、反家康の狼煙を挙げて籠城に入るのです。ところが、氏真は三河に出陣せず、またもや関東の北条氏支援に、今度は自ら軍勢を率いて赴きました。この直後の、永禄6年12月、遠州忩劇(今川への大叛乱)が勃発するのです。私は、これが今川氏の命取りになったばかりか、武田信玄も、この時
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には一切登場しません。意外に思われる方は多いと思います。例えば、武田信玄の家臣山本勘助、豊臣秀吉の家臣黒田官兵衛などは、「軍師」として名高く、大河ドラマにもなりました。しかし、山本勘助の活躍を描く『甲陽軍鑑』ですら、勘助を「軍師」だとは一言も書いていないのです。彼はあくまで「足軽
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【お知らせ】告知が出ましたのでお知らせします。8月13日、小牧市で開催されます「どうする家康」のトークショーに出演します。小牧・長久手合戦での家康、秀吉、織田信雄のお話をメインにする予定です。奮ってご参加くださいませ。komaki-kanko.jp/newslist/nhkta…
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家康は幼少だったので、今川が保護し変な混乱に巻き込まれないようにし、将来の氏真を支える一門格にしようと、築山殿をめあわせ、在府させたというのが実情でしょう。家康は人質ではない。しかも、関口氏純のもう1人の娘は、北条氏規に嫁いだらしく、家康と相婿。しかも氏規も駿府に在府していた。
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さらに、天文17年3月11日付織田信秀宛北条氏康書状写に「岡崎の城は織田軍が押さえた」と記されており、これが事実と判明します。この驚愕の事実は、村岡幹生氏の論文「織田信秀岡崎攻落考証」(柴裕之編『徳川家康』戎光祥出版所収)で明らかにされました。この結果、広忠は、信秀に家康を人質として
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こんなことを許した時点で、教育の水準は放棄されたも同然だぞ。ふざけるな‼️ digital.asahi.com/sp/articles/AS…
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スペースに参加して下った皆様、ありがとうございました‼️なんと、750人を超える方々に参加して頂いたようで、感激しています。皆様に「どうする家康」に興味を持って頂くために、今後も細々と活動を続けて行きますので、応援よろしくお願い申し上げます🙇
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戦場で、大将が軍功を挙げた家臣らに、刀剣、甲冑などを下賜するのは頻繁にみられることです。何ら問題ありませんよ。 twitter.com/usoyama_k/stat…
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何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。松平・徳川氏の研究者は、そもそもこれを学説と認定すらしていません。最も可能性が高いのは、源氏の祖である、八幡太郎義家にあやかったというものでしょう。このことは、ドラマの台詞で触れられています。家康は、松平氏