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いま、NHK大河ドラマ「いだてん」の総集編を視ているのだが、何だか泣けて泣けて仕方ない。今の東京五輪の大会組織委員会の為体を見せつけられると、頑張っている選手たちが気の毒過ぎて。ただ選手の皆さんの努力がむくわれることだけを祈ります。選手と大会に罪はない。
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だったといいます。すると石川数正は「幼い若君おひとりで殺されるならば、御供する者もないのは、人の目にも寂しく映ることだろう。ならば私が参ってお最期の御供をしよう」と申し出て、駿河に出かけていったという。数正の行動に、身分の上下に関わりなく、感動しない者はいなかったという。そして、
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合戦の吉凶を占う者のことで、軍勢の指揮などを主君に代わって行ったり、軍略などに関わる存在ではありません。歴史学者の一部には、「軍師」の言葉を平気で使用したり、「軍師」=「軍配者」とする方がおられますが、実証されていないことをここであらためて確認しておきます。
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込んだ、とてつもなく巨大な城郭寺院だったと想像されます。城郭研究者の多くは、当時の本證寺は、家康の本拠岡崎城と同等か、それより巨大だったのではないかと想定しています。なお、本證寺の堀に、蓮の花が咲いていましたね。でもドラマの表現はかなり控えめですよ。本證寺の蓮は、それはそれは見事
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あり、お市の方の子供ではないことが明らかとなりました。すると、天文16年生まれとして、結婚時は21歳となり、当時としては少し遅く、そのため実は再婚ではないかともいわれてきました。ならば、生年がもっと遡る可能性もあるというわけです。つい最近、黒田基樹氏は、お市の生年を天文19年ではないか
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ドラマや映画の仕事に携わると、脚本家や俳優陣、そして製作陣の凄さに圧倒されます。脚本家のストーリーテラーとしての巧さと紡ぎだされる言葉の妙味。俳優陣の演技力と迫力。製作陣の映像構築力。こういう才能はまったくないなぁ。#どうする家康
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まるっきり出鱈目、いい加減、あやふや、一知半解の思い込みで発言するヒトが多いなぁ。間違った考え方を正しいと思い込み、不当な論難をすることの愚かさがわからないとは。
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ゼレンスキー大統領とウクライナに、早期降伏をすべきと主張していた、テレビ朝日の玉川氏は、それを全面的に主張し続けて欲しいね。一社員が公共の電波を使って堂々とウクライナ国民の意志を踏みにじる現実を後世に伝えるためにも。歴史を知らぬ人物であることが白日のもとにさらされた。橋本徹氏もね
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よる家康襲撃は脚色ですが、家康が三河を統一するのがいかに前途多難かを暗示する物語になったのではないでしょうか。
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さて、大河が解禁になったので、あらためて宣伝をば。12月のお城Expoの前夜祭でアタクシが行う講演「三方原合戦と徳川方の城」は、まさしく大河準備という意味も持つことになりました。三方原合戦は、もう10年ぐらい前から、少しずつ調査をしてきたのですが、今現在のアタクシの考えを披瀝する機会に
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自分は八幡太郎義家の子孫であり、それに相応しい武勇で信玄と戦うというもの、もう一つは家康は義家の子孫だが、信玄は義家の弟新羅三郎義光の子孫に過ぎず、家柄としては自分の方が高いのだという自意識です。ここに、家康の信玄に対する強烈なライバル意識がむきだしにされているのです。この他に、
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れた夫丸(荷物運びの人夫役)などは、戦場での略奪で懐を暖めるしかなかったのです。その実態は、私の恩師藤木久志先生の著書『雑兵たちの戦場』をお読みください。今回は、幼い本多弥八郎と玉の残酷な別れが、乱取りによるものという表現がなされました。もちろん脚色ですが、物語の展開に重要なサブ
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年まで関口伊豆守氏純として存命していることが史料発掘の結果明らかとなりました。このことから、関口が成敗されたのは誤りであり、『松平記』などの記述は否定されることとなります。また、一部の方から、罪人の父母にまで縁座・連座が適用されるのはありえないだろうとの見解が出されています。上記
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のように、氏純は生き延びているのですから、家康離叛の責めを負うという形での成敗はありません。ただ、関口家の今川家中における地位が、これをきっかけに大きく変動(失墜)した可能性は大いにあります。関口氏純は、家康の義父であるとともに、今川家中における取次役(指南)です。取次役は、自分
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三河の事例では、家康家臣深溝松平家忠が、天正6年11月11日の軍役着到で、侍85人、中間126人、鉄炮15、弓6、鑓25などと記録されています(『家忠日記』)。三河国衆ならば、深溝松平氏も15挺は装備していますね。大草松平も、数十なんて表現してなかったでしょ?10~20挺程度は保持しているんですよ。
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ません(そんな史料は存在しません)し、彼が大名になった事実もありません。ただ、『武徳編年集成』を始めとする軍記物には、伊賀者たちを率いる人物として登場します。ですので、忍び働きをする伊賀者を始めとする、雑多な忍びたちを統率していたのは事実なのでしょう。ちなみに、忍びは、戦国大名の
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今日、チラットお話ししたことですが、三河国衆の人質は、吉田城に置くのが原則。なのに家康は駿府。岡崎松平氏が別格だったことがよくわかる。彼の祖父清康は、『三河物語』ほど過大評価は出来ないが、三河国衆の輿望をえて、これをまとめあげつつあったことは事実。国衆の対立を調停したり、合戦で
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言葉を連呼しているが、あれは間違いだ。戦国にたわけという言葉は使われていないとアタクシに主張しておられた。へぇ、そうなんだと思ってたし、高校日本史でも教師がそういうエピソードを教えてた。でも史料をみるようになって、「え?違くね?」って思うようになった。最近はやっと俗説という
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アタクシも気配りと、優しさあふれる殿潤様のファンです。皆様の末席に並ばせてくださいませ🙇 twitter.com/totto0830/stat…