K・HIRAYAMA(@HIRAYAMAYUUKAIN)さんの人気ツイート(いいね順)

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ちょっとネタばらし。新発見の徳川家康書状2通は、何れも武田遺臣曽根下野守昌世宛‼️凄いでしょ⁉️みてひっくり返ったもん😳内容はもっとおもろい。依田信蕃もででくるんだお😳😳
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人質交換が成就し、数正は竹千代とともに岡崎に戻ってきた。岡崎の人々は大いに喜び、主従を迎えに出た。石川数正は、幼い若君を自分の鞍の前に乗せ、大きな八の字の髭をピンと反らし、いかにも自慢気だったと記されています。家康重臣石川数正の武勇談として、とても有名ですね。今回の松重さんの数正
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もう情報が出ているようですね。武田氏研究で著名な、柴辻俊六先生が、去る5月21日に逝去されました。享年81。私は、41年にわたるご交誼とご教示を賜りました。衷心より哀悼の意を捧げます。ありがとうございました。程なく最後の著作が刊行されるとのこと。それが遺著となったそうです。合掌
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あるいは人質時代に印象を残すような状況にはないだろうというのが理由です。ただ、お市の生年については定説がなく、天文16年生まれというのが通説であるものの、確実な史料による裏づけがありません。出典である「柴田勝家公始末記」という近世の軍記物です。そのため裏付けとしては、かなり厳しい
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ています。それにになってくれるからこそ、国衆も戦国大名に軍役、納税などの奉公を行うのです。この双務関係により成立する、戦国大名と国衆の関係を、政治的・軍事的安全保障体制と呼んでいます。ところが、一向に支援してくれない、助けてくれない、となれば、国衆は自ら生き残りを図るために、その
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去る5月に野寺本證寺で開催されました「どうする家康」トークショーの内容が公開されました。時代考証の役割の変遷や、裏話しが満載です。三河一向一揆を3回にわたって描いたワケとは?ぜひご一読ください。 #時代考証の呟き #どうする家康 nhk.or.jp/ieyasu/column/…
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歴史は、何の役にたつのか?という質問が飛び交っておるようで。アタクシなら、その質問が、どれほど恥知らずか、よく考えた方がいいと返答しますかな。なぜなら、ご自分そのものを否定しておられるのですからな。
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スシローといい、くら寿司といい、ひどすぎる。アルバイトをしている若者が逃げ出す理由がわかる。相談も受けたし、ひでえぜ。これが現代の企業かと思うと、日本資本主義の未来は暗澹たる状況。かつての女工哀史、農民哀史の再現という深刻さ。
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これ、秀逸。その通りだよ。基礎研究の意義を理解できない奴らが権力を握っている不幸。 twitter.com/agko999er/stat…
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三方原合戦に勝利し、越年の後に信玄は何を考えていたか、如何なる戦略を立てていたか、についていろんな推測がされてきた。でも証言が残っていたのを、見過ごしてきた😅なーんだ、なるほどね、って思った。信玄が病気でなければ、違った展開があったのね。もうすぐ書き上げる新著をお楽しみに‼️
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が担当していた国衆などが離叛すると、責任を問われ、場合によっては命を狙われることもありました。石川数正、片桐且元、大野治長などはまさにこの事例に相当します。もし関口氏純が、家康のために命を落としたという『松平記』の記述が正しいとすれば、それは家康離叛の時ではなく、永禄11年12月の今
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だってさ、木曽義仲の愛妻巴御前の武勇を是認して、戦国社会の女性戦闘員を否定することはできんでしょ。
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人質はすぐに殺されてしまいます。しかしながら人質を捨てる判断を下したことで、結果的に奥平氏は戦国の世を生き延び、譜代大名にまで上り詰めたのです。江戸時代、奥平家は殺害された人質の供養を続けていたと伝えられます。 #時代考証の呟き
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これは歴とした根拠があるのです。忍びたちの活動とも絡んで、実に見事な台詞回しだったと感激しています。 #どうする家康 #時代考証の呟き
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【お知らせ】告知の許可が出ましたのでお知らせします。5月19日(水)午後8時から放送のNHKBSプレミアム「英雄たちの選択」に出演します。お題は「武田信玄幻の西上作戦~対信長最終決戦」。アタクシは、現地取材のレポートも担当します。 nhk.jp/p/heroes/ts/2Q…
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びっくりするぐらい、間違いだらけ、思い込み多数。どれだけ突っ込めるか競争したら楽しそう🤣smart-flash.jp/entame/216702/
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間違いなく美しい松本潤さんがみられます。いいテレビを買いましょう。アタクシも今年買い換えました😆 twitter.com/poohchi0830/st…
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大名と結んでいた従属関係を断ち、新たな庇護者と手を結ぶのが当たり前の行動原理でした。それは、今川氏からみると「逆心」「謀叛」「離反」であっても、国衆ら当事者からみれば「頼りない」「頼みにならない」「当てにならない」であったわけです。こうした見方は、国衆論をリードしてきた黒田基樹氏
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TSUTAYA図書館が愚かにも廃棄してしまった郷土資料は、そのリストを公表し、所有している人を探すべき。そして所有者の許諾を得て、電子化をして架蔵の復活をすべき。資本力があるんですから、そのくらいやって下さいね。
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の研究にもとづくものです。詳しくは、黒田基樹『国衆 戦国時代のもう一つの主役』平凡社新書、拙著『戦国大名と国衆』角川選書を御覧下さい。 ところで、氏真が、なぜあれほどに北条氏の支援に邁進し、三河の今川方への手当てを怠ったのかという理由は、いまも謎に包まれています。氏真は、その後、
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中世において、越前蟹が食べられていたことは、公家の日記などにみられることで、何の問題もない。この方は、歴史ライターであるようだが、専門家ではないらしい。くずし字の古文書は読めなくてもいいが、活字の古文書、記録類を読めるのだろうか。読めていれば、こんな軽率な発現は出来ないだろう。 twitter.com/Sei_Kobeee/sta…
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ものです。近年明らかにされたところでは、浅井長政との結婚が永禄10年、長女茶々を産んだのが永禄12年、次女初は元亀2年、江は天正元年であることが確定しています。浅井氏滅亡後、捕縛され処刑された長政の息子万福丸は、享年10であったことが『信長公記』に明記されていますので、生年は永禄7年で
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次いで蜂起し、反家康の狼煙を挙げて籠城に入るのです。ところが、氏真は三河に出陣せず、またもや関東の北条氏支援に、今度は自ら軍勢を率いて赴きました。この直後の、永禄6年12月、遠州忩劇(今川への大叛乱)が勃発するのです。私は、これが今川氏の命取りになったばかりか、武田信玄も、この時
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元康のもとへ送られた(氏真は元康を対織田戦にとって必要不可欠な存在であり、かつ頼れる一門衆と認識していた)ことを示すものだろうと思うのです。 #どうする家康 #時代考証の呟き
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完全なる創作ですが、戦国を生き抜くためには、弱者は何を覚悟せねばならないかを、我が子を人質に出し、それが見捨てられた経験を持つ於大だからこその説得力があったように思いました。毅然と家康を諭す於大だが、去り際の悲しそうな後ろ姿は、言葉と本心の乖離を見事に表現しているように感じ、