K・HIRAYAMA(@HIRAYAMAYUUKAIN)さんの人気ツイート(いいね順)

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この後、鳶ヶ巣山砦の奇襲を献策したところ、信長は機嫌を損じ、忠次を退けたが、少しして秘かに呼び戻し、先ほどは情報が漏れてはと思い失礼した。見事な策ゆえ実行されたいと述べたのは、同書による有名な逸話。事実かどうかはわかりませんが。 #時代考証の呟き #どうする家康
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#時代考証の呟き #どうする家康   (5)「国家」再論 第7回の呟きで、家康の改名には、三河を一つの家と捉え、それに平穏をもたらしたいという彼の願いが込められていたことについて解説しました。戦国大名は、自らの領国を「国家」と呼び、それは、国とは、家(家を中心とする一族)の集合体と
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天正10年3月11日早朝、滝川一益配下が田野にいる武田勝頼主従を発見。遂に最後の戦いが始まった。そして正午を待たず、勝頼夫妻、信勝は自刃(異説あり)、家臣や侍女らも悉く散華した。戦いながら、囲みを切りやぶって生き延びた者もわずかにいたようだ。ここに戦国大名武田氏は滅亡した。合掌
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川氏滅亡の前後に、家康に通じる動きをしたからなのかも知れません。このことは、宿題として残しておきたいと思います。#時代考証の呟き #どうする家康
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今夜の栗原英雄さん、大江広元じゃなくて、真田信尹にみえた。あの太刀さばき、凄い。 #栗原英雄 #大江広元 #真田信尹 #鎌倉殿の13人
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京都府と奈良県が、本気で、『京都府史』『奈良県史』を作ると決意したならば、ぜひとも参陣したい。全国の歴史学者垂涎の的となることだろう。現存する寺社だけでも、相当の史料があるはず。歴史学者は、比叡山延暦寺の文書が織田信長によって失われたことを嘆いたとしても、十分な発見に恵まれると
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(7)水野信元が、大高城に在城する家康を見逃すよう信長に懇願したという話 もちろん史実ではなく、古沢さんの脚色です。あのような設定にしたのは、幼少期の信長と家康との関係、伯父水野信元が甥家康を、口ではともなく可愛く思っていること、などを描写するための仕掛けの一つだったことが
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慶長8年2月、家康は征夷大将軍に任命された直後、彼は陰陽頭土御門家に、無病息災と長寿を祈願するよう求め、自ら署名を加えた願文(都状)を出しています。そこには「六十一歳癸卯年」と明記されているのです。これを逆算すると、天文12年生まれとなり、卯年になるわけです。自分の生年を書き間違える
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TSUTAYAが廃棄した郷土資料は永久に戻らない。なのに誰も責任を取らない。戦災で、災害で失われたのなら、まだ諦めがつく。無知、思いつき業務、安い委託料、ただの自社宣伝の犠牲にされたとすれば、そこ損失ははかり知れない。東日本大震災で修復に持ち込まれたのは二度と取り戻せぬ郷土資料だった。 twitter.com/yX3hO9ycHeJMdc…
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今日は、NHK文化センター名古屋の講座に参加して下さった皆様、ありがとうございました🙇ネタバレを避けたお話しでしたが如何でしたか?松本潤さんを支えるチーム家康の一員として、こういう仕事をしてるんですと紹介できて、私も楽しかったです。これからも大河をお願いいたします🙇#どうする家康
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です。岡崎城の復元CGを含め、当時の縄張りすらわかっていませんので、想定復元ということでご了解ください。城郭については、別途、城郭考証がおられるので、そちらで協議されていると思います。
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氏真に見切りをつけ、今川との同盟を再考するようになったと考えています。詳しくは、拙著『徳川家康と武田信玄』(角川選書)をご覧ください。今回は、戦国期研究において重要な位置を占める、国衆論が見事に反映され、取り込まれた脚色になっていました。#時代考証の呟き
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鉄炮は、北条氏の事例から1挺8貫500文で、現在の50~60万円ほどとなる。三河では、米俵1俵=2斗5升入=500文であり、米1石=4俵=2貫文なので、米に換算して約4石分ということになります。それなりに高価ですな。でも当時は猟師が所持して狩猟を行っていますので、一般にもかなり普及してますね。
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アタクシ、来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の援護射撃と、山梨県の観光を盛り上げるべく、「アタクシと歩く甲斐源氏ツアー」やろうかなと思いますけど、どうかなぁ🤔
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このことから、いくつかの仮説が立てられます。それは、①家康は自らを生まれながらの帝王であることを印象づけるため、生年の操作を将軍任官後に実施したというもの、②家康死後、幕府が操作を行ったというもの、③家康の勘違い、④壬寅生まれも、癸卯生まれもどちらも正しいというもの、です。
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かなり豊富という印象があります。景勝期の文書、とりわけ御館の乱のころの史料には、味方の城に玉薬を春日山城から補充しているものがたくさんありますね。太平洋地域と日本海地域の格差については、今後研究すると面白そうです。
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家康が12月26日生まれであることは、慶長8年、家康が征夷大将軍に就任した年の12月26日に、京都相国寺などで「将軍正生誕」(将軍の誕生日)の祈祷が実施されています。これは足利将軍以来の先例にならったものでした。このことから、12月26日生まれは間違いなさそうです。でも、「寅の刻」生まれを
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(3)六名村ってどこ? 夏目広次が、村々から参陣を希望する者たちを集め、帳簿の作成を行っている場面がありました。夏目は「六名村の吾作、吾一だな」と言っています(ちょっと聞き取りにくいかも)。この「六名」は「むつな」と読みます。現在の愛知県岡崎市六名町のこと。古沢さんの脚本に、
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証明する史料は発見されていません。このように、家康の生年と誕生日については、誰も異儀を差し挟んできませんでした。ところが、これとまっこうから対立する事柄を、当の家康本人が書き残しているのですから、混乱します。
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と指摘していますが、これも出産年齢はもう少し若いはずだという推測にもとづくもので、確証を欠いています。生年がわからないのであれば、番組の設定としてはどうかと相談されました。私は自信がなく、反対意見を述べ、他の方に判断を委ねた次第です。
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『日葡辞書』にも「タワケタモノ。または、tauaqe (タワケ)〈訳〉大変おろかなもの、馬鹿者」、『信長公記』首巻にも「去ては此比たわけを態御作り候よと、肝を消し、各々次第次第に斟酌仕候なり」とあり、戦国期の人間が使用していても、何ら問題がない。
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大河ドラマ「真田丸」を放送中、上田で講演会とトークショーに出演したとき、会場から「真田昌幸がえげつなく描かれすぎ。何とかしてくれ」とのいいだろ指摘を頂いた。アタクシは躊躇なく「史実はもっとえげつない。お調べ頂いければわかります。むしろ三谷脚本は優しいんです‼️」と力説しました😅 twitter.com/sekigaharanifu…
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私は、①を考えており、近年の歴史雑誌などでもそのように記しています。②も可能性を捨てきれません。③は前記のように可能性は低いでしょう。このこともあり、ドラマでは於大の方が、実際には卯年生まれなのに、寅年生まれでしかも三寅だと言い張ることで、竹千代が戦国乱世を生き抜く強い男子に
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山梨県の観光関係の皆様、来年の大河「鎌倉殿の13人」も、再来年の大河「どうする家康」も、ともに山梨県は大きく関係しますよ。チャンスを逃さぬようにしてくださいませ。大河「真田丸」を壮烈にスルーした轍を踏まぬようお願いしますよ。
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ある時期までは、鉄炮は財力で買いそろえることが可能だったと考えていますが、天正期に入るころから、織田信長が畿内を制圧したことにより、敵対勢力への軍事物資(鉄炮、硝石、鉛など)の売買をどうも制限しているふしがあるのです。なので、武田・北条は鉄炮をそれなりに持っているのに、玉薬が