R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(古い順)

351
続いて、家屋が立ち並んでいた辺りに向かった。しかし、家屋は見当たらない。尾島が無人化したのはS.47年10月。全島民の離島時、家屋は壊されることなく、そのままで残された。離島から50年経ち、全てが朽ち果てたのだろうか。半ば諦めつつ藪の中を進む。不意に藪が開け、何かが見えるではないか。
352
『尾島の墓標』 墓標のように太い柱が立っていた。太さからして、葉タバコ乾燥庫のようだ。碍子や電線など、暮らしの跡も散らばる。尾島の戸数は、多い時で10戸。S.29年に自家発電が始まり、S.41年に海底経由の給電開始、共同電話もS.36年に開通した。ただ、定期船が来ることは一度もなかったという。
353
45年前の航空写真には、台地上に耕作放棄地と農作業小屋が写っていた。今では影も形もなく、明るく広々とした雰囲気だけが残っている。尾島での主な現金収入源は葉タバコで、それ以外にも麦、甘藷、スイカ、葡萄を作り、漁業も細々と行っていた。厳しい環境での暮らしは、決して楽ではなかっただろう。
354
『大歳宮』 社殿は倒壊し、2つの鳥居は大きく傾いていた。地図に描かれた神社記号の場所には、確かに神社があった。島が売却された後、神社を訪れる人は皆無だったのか、酷い荒れ具合だ。御神体は島民とともに本土に渡ったのだろうか。神社の存在が人々から忘れ去られるのも、そう遠くなさそうだ。
355
尾島が歴史に現れるのは元文5年で、9戸、47人とある。平家落人の伝承や、尼子家遺臣供養の念仏行もあるが、それ以前の記録は残っておらず、六島村の他島に比べて歴史が浅い。このことより、尾島での暮らしの始まりは他島より遅いと考えられ、始まりのきっかけが他島からの出耕作だったとも考えられる。
356
迎えの船で萩へ戻った。売却から50年後の尾島を確かめることはできた。しかし、もう一つの疑問である『何故、尾島は売却されたのか』は解決できていない。後日、情報を求めて様々な場所を訪ねたが、関係者にお会いすることはできず、書籍での調査となった。50年という年月はあまりにも重い。
357
尾島での暮らしは、苦労の連続であった。特に、港整備による多額の費用負担、自家発電の負担など、小さな離島という環境面における島民の負担は重かった。それでも島民たちは協力して困難を乗り越えてきた。しかし、乗り越えられない困難があった。寄宿舎創設により、子供たちが島を出ていったことだ。
358
僅かな面積の尾島では、多くの人を養うことはできない。一方で、葉タバコ等の畑作は多大な労力を要するため、子供たちも労力の一端を担っていた。その子供たちが島を出ていったのだ。労働力は減少し、生産量も減った。島民たちは出稼ぎに出たが、出稼ぎによる人口流出は島の共同作業を困難にした。
359
様々な想いの中、島民は尾島を売却し、本土に移住することを決めた。島民は、島の市・県による買収、買い手の斡旋などを市に要望し、S.47年10月全島民が島を出た。その後、島は入札を経て、7600万円で落札された。尾島は現在も開発されていない。落札した業者によれば、今後も開発予定はないという。
360
島民たちが尾島を出たことについて、民俗学者の宮本常一氏はこう書かれている。『子供たちが教育のために島から出てゆき、もう再び島へ帰らないとすれば、親たちもこの島でいつまでも苦労する必要はない。そこでついに全員、島を離れる申し合わせをしたいという』(宮本常一著『私の日本地図13』より)
361
島民たちが尾島を売却するに至った要因は多々あるが、その発端は『子供たちが島を出た』ことだった。更に言えば、寄宿とはいえ、子供たちが島から出た時、尾島の運命は決まったのだ。『売られた有人島』緑に覆われた尾島の姿。それは子供たちが出ていった島の『未来の姿』だった。
362
以上で尾島についてのツイートは終わりです。大変お世話になりました船長、お話を伺わせていただいた萩市の方々、及び上陸を許可いただいた尾島の所有業者様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。(今回の尾島上陸にあたり、所有業者様に上陸許可をいただきました)
363
『対岸に描かれた集落』 豊富な雪解け水が流れる大河。この大河を挟んだ100m先には集落があるはずだ。しかし、対岸に渡る橋は無い。どのように集落に向かうのか。その謎を紐解くうちに見えてきたのは、川と共にあった暮らしと、消えた祭祀の存在だった。
364
『小さな小さな猫の島』 60匹を超える猫達が気ままに過ごす。漁業で栄え、かつては300人あった人口も、現在では13人。定期船もなければ、観光スポット的な場所もない。島には静かな時間が流れ、時折猫の鳴き声が響く。何も無い島という人もいるけども、この島には『純粋な島の魅力』が溢れているのだ。
365
酷道471・472号の楢峠。去年に続いて、今年もトラックが突っ込み脱輪してしまう。現在通行できませんのでご注意を。 twitter.com/hirokun_shisho…
366
この辺りで脱輪しています。楢峠区間で最も険しい箇所です。
367
今回、トラックは富山県側から入って脱輪しています。去年も、トラックが富山県側から入って脱輪しています。確か、富山県側には大型車通行不能の看板が無かったような・・・いずれにせよ、この場所は谷底まで高低差があり、落ちたら死にます。脱輪で済んだのは不幸中の幸いだったと思います。
368
石切集落が無住化してしまいます。いずれこうなると感じていましたが… twitter.com/kendou774/stat…
369
蒼い海と小さな島。島の分校が休校になってから12年。分校は再開されることなく廃校となった。今、島に住むのは4人。島の現状は、島のあちこちで感じ取ることができる。それでも、島民の方々はとても明るく、優しかった。この島にあったのは寂しさでも侘しさでもない。『小さくも美しい島の姿』だった
370
『何故ここに建物があるのか』 地理院地図に建物の記号が一つ描かれている。たったそれだけのことだが、こんな立地では気になって仕方がない。
371
まさにこの地形の集落だ。東北でも有数の険しさを誇る渓谷沿いにあり、冬季になれば雪で交通は遮断される。遥かに奥深いこの地で、800年近い歴史を持つ集落であったが、S.47年に人々は山を降りた。今でも僅かに残る建物が当時の姿を想像させる。
372
『実川集落』 会津風土記には『飯豊・高森等の高山東北に峙ち寒早く暑遅く、双びなき幽僻の地にて本郡東北の村落ここに窮る』と書かれる。集落へ至る道は険しく、谷も恐ろしく深い。それでもS.31年には31戸200人近い住人がいた。近年は発電所を雇用の場としていたが、発電所自動化により閉村に至る。
373
この立派な家屋は五十嵐家住宅。宝暦9年建築。現在は重要文化財に指定されています。集落はS.47年に閉村しましたが、その後も無積雪期には住人の方が戻ってきていました。それにしても実川集落の祖は、よくぞこの場所に住み着こうと思ったものです。
374
こっそりお教えします。 『ヤマビル対策にはサラテクト!!』 これを足元に「ブシュー」っとスプレーします。「プシュ」ではなく「ブシュー」です。足元がベッタリするくらい思いっきり吹き付けます。すると不思議、ヤマビルが近寄らなくなるのです。
375
『集落を見下ろすように冬季分校が立つ』 S.40年代まで、この集落は雪で外界から隔絶された。集落内には家屋が立ち並ぶも、住むのは老夫婦の1世帯のみだ。緩斜面に広がる耕作地は、その殆どが放棄されている。獣害が酷いのだろうか。そう老夫婦にお尋ねした。すると意外な答えが返ってきた。