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精神疾患の全てが誰にでもなる病気とはいえない。けれど「適応障害」と「うつ病」は、本当にどんな人でもなる病気。どんなに自信満々でも。どんなに人生うまくいっていても。優しい人もそうでない人も。敏感な人も鈍感な人も。
だから、「なった人が弱い」とか「適応能力がない」とかでは全くない。
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理不尽な目に遭い、それを同じようにやり返しても心の傷は相殺されないことが多い。だからこそ苦しい。復讐してもしなくてもスッキリできるわけでなく、傷つけられた心はなかったことにはできない。周囲は忘れても本人はずっと抱えていく。折り合いをつけるのは簡単ではない。生きてるだけで頑張ってる
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「死ぬわけじゃないんだから大丈夫」という言葉は本当に苦しんでいる人の励ましにはならない。むしろ死を考えることが唯一の気持ちの拠り所となっていて、なんとか生きられているケースは少なくない。「死にたい」と思うのは何も悪いことじゃなく「表現できないほどツライ」「助けてほしい」の究極形…
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何かを辞める理由で「他にやりたいことがある」とかの「次のアテがある」だけが「辞める理由として前向き」と評価されるのは変。
「苦しいから」「合わないから」「給料が安いから」などという理由も「自分の心身と生活を守るため」という充分に前向きな理由。
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「頑張ってるかどうか」ということよりも「食べたい物は浮かぶか」「今日の天気はどうだったか覚えているか」といった感覚を気にしてあげる方が大事なことがある。「物の味がしなくなっていないか」「気温が分からなくなるほど思い詰めていないか」など、何か分からなくなっていたらかなり危機的サイン
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子ども時代に「助けを求めても誰も助けてくれない」という体験をすると、その場でできる精一杯の対処をしても「自分は何もできない」というような無力感と「自分の人生は他者次第」という世界観を抱かざるを得ないことがある。それこそがトラウマ反応であると気づくことが癒しにつながることもある。。
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子ども時代は1人では生きていけないから、命を握っている人に好かれようとするし何とか認められようと必死にがんばる。。それは生命維持に必要だった。それがいつからか大人になって「自分を苦しめるスキル」になってしまう。。でも理由はちゃんとあった。無意味に自分を苦しめてたわけじゃない。。
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フラッシュバックは「鮮明な映像」だけでなく「ダルさ」などの身体感覚や「自分には価値がない」などの思考としても繰り返し起きる。加えてトラウマは行動として再現される。強烈性は弱い慢性的な鈍い苦しみなど"今まさに起きているかのように"思わせる認知や行動こそトラウマ反応である可能性が高い…
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大人になって大切な人に「依存してはいけない」と気にし続けている場合、依存しなければ生きられなかった子ども時代に充分な安心を得られず不安な中で自分を叱咤してきたことに起因していることが多い。だから「今の自分」に依存するなと厳しくするのではなく、「かつての自分」に優しい言葉をかけたい
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理不尽なストレスで心が強くなることはない。心が強くなるのは自らの意志で前向きにがんばったという場合のストレス。そして理不尽な痛みに麻痺することはあっても慣れることはない。「つらくても耐え続ける」ことが心が強いということなら、強くなる意味はない。そもそも強弱に価値を置くことはない
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幼少期から苦しい環境に置かれると「劣悪な環境下に耐える」ことしか選択肢がなかったことで、大人になってからも「自分のことへの選択権」が低いことがある。自分で選んでいるようで選べない…。「仕方ない」「がんばるしかない」と追い詰めてしまう。自覚している以上に頑張っているし、選んでいい。
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「他人は変えられない」って聞くと「じゃあ自分が変わらなきゃ」ってなぜか思っちゃうけど、自分も変わらなくてもいい。どっちも変わらなくていいし、自分もそう簡単には変えられない。変えるべきか真っ先に検討すべきは他人でも自分でもなく環境。次にストレス源となる人との接触回数などの距離。。
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ずっと否定されていたら、何をどうやっても「自分は何か劣ってるんだ」という意識がつきまとう。どんなに頑張っていても、どんなにできていても。「認めてもらえない」というのは劣等感を植え付ける…。だから大人になってから自分を肯定するのはなかなか上手くできなくて当然。自分を待ってあげたい…
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「褒め言葉」や「励まし」などの他者からの言葉を疑ってしまう場合「自己否定が強いから」だけではなく、かつてそういったポジティブな言葉を、自分をコントロールするために使われてきたという経験ゆえの不信であることもある。「人の言葉を信用できない」としたら、そうする理由がちゃんとあるのかも
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子ども時代が苦しい環境であると「耐える」ことしか選択肢がない。そのため、自分の人生の選択意識をしっかり持つことができず「自分の人生は自分以外の他者次第」と無意識に刻まれることがある。意識的には選んでいるかのように「今の環境に耐えてなくては」と自分を叱咤し我慢をし過ぎてしまうことも
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「自分で選んだんだから」といって、合わないのに我慢し続けなくていい。また選べばいい。一度選んだら変えちゃいけないなんてことはない。誰かに「自分で選んだんでしょ」と詰められたかもしれませんが、未来予知などできないんだから、やってみて違うというのは何も悪くない。1つの経験になった。
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「自分を守る」には、一定以上の体力と自尊心、自己主張できる環境など、実はいくつかの条件が必要になる。だから理不尽な被害に続けて遭ってしまったり傷つく環境から逃げられないこともおかしいことじゃない。「断る」ことは体力や自尊心を奪われたらできなくなる。「断ればいい」で済むことじゃない
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大人になってやっと自我を取り戻してきたとき、「遅れた反抗期」のような時期がある。自分のことをわかって欲しくて仕方がなくなったり、信用してる人を疑ったり、正しさに敏感になったり。イライラしたり不安になったり感情が激しく乱高下する。
悪化ではなく、自尊心を取り戻して回復している証。。
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親の機嫌を伺って育つと、常に他者の機嫌を考える思考回路ができてしまう。だから大人になってからも他者の機嫌の悪さに敏感で、どうしても気になってしまう…。その回路を断つには不穏さより安全感に慣れることが必要。「安全に慣れていない」ことが不安を連れてきているこたも。慣れるには時間が必要
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「死にたい」という言葉を「そんなこと言っちゃダメ」と封じないでほしい。更に追い詰められる…むしろ死を考えることが唯一の気持ちの拠り所となっていて、なんとか生きられているケースは少なくない。「死にたい」と思うのは何も悪くない。「表現できないほどツライ」「それしか希望がない」心の叫び
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「1人で抱え込まずに相談しましょう」とよく聞くけれど、相談できなかったから行き詰まったのではないことがほとんど。助けを求めても助けてもらえなかったから、相談したらもっと傷ついたから行き場がなくなったケースの方が多い。相談する側よりされる側である支援者や親などが注意されなければ(自戒
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「優先順位を決める」には根本的に自分を大事にできていないと難しい。ある物事に自分はどれくらい消耗するのか得意なのか苦手なのかetc…加えてその時の自分の状態も把握した上で判断しなくてはいけない。だから思考力が低下している状態だと分からなくなって当然。「決められない」時は休めのサイン
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無理し続ける状態が小さい頃から日常であると「無理しない」が分からない。「無理しない」ためには自分を知ることが必要。でも自分より他人を気遣わないといけない環境であったら、自分のことも何が無理かも分からない。だから「病」は懸命な知らせで、自分で自分を助けようとしたからであることも。。
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「自己嫌悪するのは自己評価が高いから」ということは実際は少ない。自分を過大評価してるからできないと嫌悪するんじゃない。できないことが許されなかったから、自分に対する「寛容さ」が持てないためであることが多い。自己評価の上下でなく、自分に対する不寛容さを理解して寄り添っていきたい。。
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トラウマがあると「乗り越えないと」「あの時に比べたらマシ」といった思考になることで自分を酷使してしまいがち。自分の痛みに鈍感なために病気になるほど頑張っても「大したことじゃないのに…」と自己否定を強めてしまう…。「大したことない」という思考より微かな不快感を信じていいかもしれない