殭屍の史林堂(@Jiangshi2020)さんの人気ツイート(古い順)

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#中国史沼にハマる前に誤解していたこと 「なんで華北に国が集まるのかなぁ?福建省や湖南省辺りがガラ空きだと思うんだけど。」 ※衛星写真を見れば一目瞭然。意外と平地は限られているのだ。
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曾侯乙墓から出土した棺。 約2400年前に存在した曾(現在の湖北省)という小国の君主がこの棺の中で眠っていたが、その図柄は私達が想像する中国らしさとは無縁の禍々しいイラストで埋め尽くされている。 先秦時代の文化に思いを馳せるときは明清代の延長で考えてはいけない。
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末期の印象から「ビザンツ帝国は弱い」というレッテルを貼られがちだけど、こういう見方は中国史でも多い。 毎度のように万里の長城を破られて北方から侵略されてる印象があるけど、実は人間の一生よりも長い期間、侵略を防いでいることのほうが多い。 歴史が長いと神の目線で結果から逆算しがち。
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シーマオ遺跡。 アンデス地方で発見された城塞…じゃなくて、なんと中国陝西省の遺跡!石峁(シーマオ)と読む。 4000年以上も昔に建てられてたもので、夏王朝以前の先史時代に相当。にしてもレリーフが全く中国らしさを感じさせない。現代人に馴染みのある中国文化は漢代以降に成立したに過ぎない。
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1803年、嘉慶帝暗殺未遂事件が発生。犯人の陳徳を取り押さえ首謀者を聞き出すべく拷問にかけると、衝撃の事実が判明した。 「仕事がクビになって死に場所が欲しかった。皇帝を襲えば派手に死ねると思った。」 これには皇帝も「狂犬に咬まれたようなものだ」とコメント。無敵の人はどこにもいるのだ。
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阿房宮(秦代)→未央宮(漢代)→大明宮(唐代) ここに紫禁城(明・清代)も入れたとして、時代を下るごとに主殿が縮小していく謎の減少が起きる。その理由として挙げられるのが「木材不足」。 大規模建築には巨木が不可欠。皇帝の権力をもってしても、木材がなければどうしようもない。
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同じ紫禁城でも明代と清代ではこんなに大きさが違う。長さ95m、現存していれば東大寺大仏殿を超えて世界一の木造建築物だった。 ※東大寺も現存のものは江戸時代に建てられた縮小版。木材不足は日本も例外ではない。
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#まだ信じられている迷信 「儒教は権力者に都合がいいから東アジアの国教になった。」 →儒者は度々弾圧されます。筋を通して権力者に弾圧されることを名誉だと思っているので。孔子も孟子も朱子も生前は不遇。 そもそも、権力者に都合がいいという一点で採用されるなら「法家」が選ばれるはず。
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【清朝八代「知道了」】 皇帝の下に無数にやってくる奏上文。読んだら読んだでコメントを残さないといけない。そのなかでも最頻出なのが「知道了(了解した)」。 お手本のような字にクセのある字。 あなたの好きな「知道了」はどれ?
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東アジア史の薫陶を受けてきた人間なら中国の歴史の深さに誰もが驚かされてきただろうけど、オリエント史に触れると更に遡るモノの多さに腰を抜かす。 中国の代名詞である官僚制すら、古代エジプトでは中王国時代(紀元前2000年前後)に実力主義の書記による文書主義国家が築かれていたほどなので。
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軍事史好きなら知ってるであろう「戦史の探求」さんのblogリンクを置いておくとして、ムハンマドの戦術はとにかく泥臭い。 士気以外に取り柄のない寡兵がどうやって大軍を相手するかの一点を現実的に導き出している。無理を絶対しない秀才タイプの名将。 warhistory-quest.blog.jp/18-Mar-06 twitter.com/Jiangshi2020/s…
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113万人もの大軍を起こした煬帝による第二次高句麗遠征。 隋書に記載があるとはいえど流石に盛り過ぎだと思ってたけど、歴史学者が大真面目に検証すると、最低でも80万人以上の大軍で遠征した可能性が高いらしくてビビった。
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科挙といえば文官向け任用試験だけど、その裏では武官向けの武科挙も行われていた。 基本的に騎射、歩射、重量挙げといった実技と、兵法書の知識を試す学科の二本立て。首席合格者は武状元と呼ばれる(科挙の状元に相当)。 いわずもがな、文>武のお国柄なので、武科挙の注目度はかなり低かった。
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内藤湖南「明代はつまらん」 宮崎市定「明代はナマコのように特徴がない」 司馬遼太郎「明代は古代よりも古代らしい」 どうしてこうなった?
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偏りのない歴史観を持つことは学者ですら難しい。むしろ、歴史を語る者なら誰しもが何かのバイアスにかかっているという認識が必要。 政治的に中立な歴史観を自称するのは、小僧が少し座禅を組んだだけで「色即是空の境地に達しました」と喜んで和尚に報告するようなもの。
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ある総撫(地方長官)が困窮する寡婦を憐れんで「彼女らのために福祉施設を設立したいです」と雍正帝に上奏した。 雍正帝は上奏文に赤字で返答した。 「それは良い案だが、お前はその施設を維持できるのか?後任はそのまま続けてくれるのか?」 リアリストな名君と名高い雍正帝らしい逸話である。
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「科挙の倍率、10万倍。」 合格者数の10万倍も不合格者がいれば暴動が起きるんじゃ…? ⇒最終合格の途中に生員や挙人という身分が存在する。ドロップアウトしてその地位で満足することも可能だった。 「科挙」は一発試験ではなく、昇級試験なのだ。 #中国史沼にハマる前に誤解していたこと
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【今知った中国語】 厚礼蟹(hòu lǐ xiè) →holy shitの音訳 厚く御礼申し上げる蟹とかではない。
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←理想の函谷関  実際の函谷関→
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理想の函谷関が、2つの意味で「高すぎる」。 古写真のほうの函谷関は、曹魏時代のものが度重なる修復を得ながら20世紀前半まで残ったもの。函谷関は秦代のだけじゃなく漢代のもあったりと、度々場所を変えて建てられている。 ただ、そのどれもが切通しを塞ぐようにして建てられたことは想像できる。
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一応、歴史書にも函谷関の高さは66m(漢代)と書かれていたりするけど、自然の地形も高さに加味されてそうではある。 鉄筋コンクリートもない時代、版築だけで66m積み上げるのはさすがなキツい。 ずっと時代の下った明代の万里の長城、あれを考慮すれば函谷関も現実的な姿だっただろうと思われる。
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マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿で毎日舞踏会を開いても、それよりも軍事費のほうがはるかに高かったという話を思い出す。 フランス王国はルイ14世の頃から軍事大国で、16世の頃には米国の独立戦争支援でさらに出費がかさんでいた。 感情は別にして、軍事費の前に個人の贅沢は塵に等しい。 twitter.com/hally_sen/stat…
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【古代中国のギフテッド】 皆が神童だと囃子立てて皇帝の耳にまで届くと、「童科」と呼ばれる子供用の科挙を受けることができた。 けれど、蓋を開けたら早熟なだけというケースがほとんどで、大人に振り回された可哀想な子供を生むだけだから次第に行われなくなったという。 宮崎市定『科挙』より
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清朝末期の軍隊ってどんな軍装だったのだろうか?→検索結果 曰く、画一化された軍装はなかったので、司令官が各々好き放題に用意したものを着ていたという。 八旗の色分けみたいな理念先行の軍装はどんどん崩壊して、なぁなぁになっていくところがリアル。 軍閥の時代の萌芽はここからも分かる。
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ゲリラ戦で国盗りに成功した集団がかかりがちな病気だ…。まれに、ゲバラみたいな最高指導者レベルまでこれにかかってしまう。 でもわかる。最高にスリリングなRPG&戦争ゲームなんだから、脳内麻薬で溺れてしまうのだろう。おまけに「正義」まで掲げられるときたもんだ。 twitter.com/Moskva_Daisuke…