二・二六事件、占拠された山王ホテル 戦後はアメリカ軍に接収され、長きにわたって日本人の立ち入りが禁じられるなど、数奇な運命をたどりました。
1936年2月26日、日本陸軍の青年将校らによるクーデター「二・二六事件」が起きました。 この事件により、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実、陸軍教育総監の渡辺錠太郎らが殺害されました。 昭和天皇は、当初よりこの蹶起に批判的で、「君側の奸」を排除せんという将校らの思惑は一蹴されました。
大正時代に撮影された東京の風景
明治時代に撮影された本能寺 #麒麟がくる総集編
戦前に撮影された織田信長ゆかりの地 1枚目から清洲城跡、熱田神宮、津島神社、桶狭間古戦場跡です。 清洲城は江戸時代に廃城となり、現在あるのは1989に作られた鉄筋コンクリート造の模擬天守です。 #麒麟がくる総集編 #麒麟がくる
明治時代の初めごろに撮影された人々の暮らし
今日は天皇誕生日(天長節)です。 大正時代は天皇誕生日による祝日が年2回ありました。 大正天皇の誕生日は8月31日ですが、気温が高く、式典を行うのが困難であることから、10月31日が天長節祝日とされ式典が行われました。 8月31日は何も行事はありませんが、祝日とされました。
明治時代に撮影された琵琶湖
今日は『ネコの日』です。 ネコはネズミの害から穀物を守るために奈良時代頃に中国から輸入され、以降長きにわたって鼠害防止の益獣、および貴重な愛玩動物として扱われました。 江戸時代にはネコが貴重で少なかったため、ネズミ駆除のために猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいました。
明治時代に撮影された伊香保温泉 石段の風景
12代将軍徳川家慶は14男13女を儲けますが、ほとんどが早世、20歳を超えて生きたのは家定だけでした。 家定は障害を持っており、リハビリを行いますが、思うような効果は得られませんでした。 そんな中、正室の甥にあたる慶喜を寵愛し、子ができない家定の次の将軍にしたがったといいます。#青天を衝け
今日は『漱石の日』です。 1911年2月21日に夏目漱石が文部省からの文学博士号授与を辞退したことに由来します。 漱石は1905年に『吾輩は猫である』を発表して以来、『坊っちゃん』『三四郎』『それから』などの作品を手掛けている頃でした。 『こゝろ』『道草』などを発表し、1916年に亡くなります。
明治時代に撮影された富士山
明治時代の初めごろに撮影された京都の風景
日露戦争における日本の辛勝は、戦争遂行のための資金調達に成功したことが大きかったと言えます。 その資金調達に尽力した人物こそ、当時日銀総裁だった高橋是清でした。 交渉の末、戦費の約7割を、外債で賄うことに成功しました。 ちなみに、この外債の完済まで戦後の1986年までかかっています。
高島秋帆は日本初となる洋式砲術の公開演習を行なうなど砲術家として活躍しました。 しかし長崎会所をめぐる幕府の抗争に巻き込まれ、岡部藩にて幽閉されますが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触していたそうです。 ペリー来航による社会情勢の変化に伴い釈放されます。 #青天を衝け
徳川慶喜は父の斉昭に厳しく躾けられました。 慶喜は幼い頃寝相が悪く、斉昭は寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てたといわれています。 慶喜は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと分かっていましたが、寝心地は悪く、繰り返すうちに寝相を治したそうです。 #青天を衝け
渋沢栄一は花柳界では5本の指に入る遊び人だったそうです。 仕事も遊びも生涯現役の渋沢栄一。こんな目線で今年の大河を見てみるのも面白いかもしれませんね。
渋沢栄一は無類の女好きでした。 妾の子も含めると子供は50人ともいわれています。 夫人は「『論語』とは上手いものを見つけたよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れてないものね」と語ったそうです。 (キリスト教は姦淫を禁じているが、論語には性に関する戒めは書かれていない) #青天を衝け
明治時代に撮影された日本橋 白木屋の店内の様子です。 他店に先駆け、伝統的な呉服店の営業形態だった座売りを廃止し、陳列式に切り替えた店内が特徴的です。 蕎麦屋や寿司店など飲食店も出店し、販売方式の面で百貨店化するとともに、飲食店を併設するという面でも百貨店の先駆けとなりました。
今日は建国記念の日です。 戦前は紀元節と呼ばれていましたが、戦後GHQによって削除され、1967年に佐藤栄作内閣によって建国記念の日として復活しました。 今年は初代天皇の神武天皇が紀元前660年2月11日に即位してから2681年目、皇紀2681年となります。
南光坊天海はなぜか甲冑が残っており、その名前は「麒麟前立付兜」 知らなかった… #麒麟がくる touken-world.jp/tips/11264/
明智光秀=天海説の根拠 ・日光に明智平と呼ばれる区域がある ・徳川家光の乳母は、斎藤利三の子の春日局、家綱の乳母は光秀の重臣の溝尾茂朝の孫 ・光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦も、戦後に助命 ・光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していた ・天海の墓所は近江坂本 #麒麟がくる
伊藤博文の女好きエピソード ①留学中、風俗街に入り浸り帰国させられそうになった ②日清戦争で広島大本営滞在時も芸者遊び ③「掃いて捨てるほど女がいる」という意味で「ほうき」というあだ名がつけられる ④『恋の伊藤博文』という本が出版される
明治時代に撮影された商売人たちの様子