平安、鎌倉時代の人々は月食を悪いことが起こる兆しと考えていました。 九条兼実は月食の時にはお経をひたすら唱え、月を見なかったと日記に記しています。 源頼朝は月食の光を避けるため、わざわざ御家人の家に泊まったと記録にあります。 しかし御家人の家で宴会をしていたようです。 #皆既月食
1945年5月25日、B29爆撃機470機によって東京で空襲が行われ、3,651人の死者が出ました。 この空襲で天下三名槍の一つである御手杵が松平家所蔵の宝物とともに焼失してしました。 当主は槍を埋めるように言っていましたが、家人が宝物にそんな扱いはできないと無視していたことが仇になったようです。
カラー化したら映えた殿方たち
1945年9月に撮影された、復員兵たちを乗せた運賃無料の復員列車。 1947年までに、約624万余人の方々が復員・引揚げにより日本に帰ってしました。
明治時代の初めごろに撮影された東京の風景
1928年5月21日、野口英世が亡くなりました。 黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル賞候補に3度名前が挙がりました。 野口は名言をたくさん残しており、「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」などは現代にも通じる言葉です。
今も残る明治期の京都の風景
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件で、その猟奇性ゆえに、事件発覚後及び逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
1868年5月17日、新選組局長の近藤勇が斬首されました。 鳥羽伏見の戦いで敗れた後、新選組は甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いで新政府軍と戦い敗れ、下総流山に駐屯していました。 その後新選組に背後を襲われることを恐れた新政府軍により捕縛され、元隊士に変名を見破られ、板橋にて斬首されました。
1867年5月17日、高杉晋作が亡くなりました。奇兵隊を創設し、長州藩を倒幕へ方向づけました。 辞世の句として「おもしろきこともなき世をおもしろく」との歌が残されています。 同時代の志士たちからも高杉は別格との高い評価を受けていますが、27歳の若さで肺結核により亡くなりました。
上野公園内にある上野東照宮。 日光東照宮、久能山東照宮と並んで三大東照宮とされています。 伊勢津藩主の藤堂高虎が屋敷の敷地内に創建したのが始まりで、徳川家光によって改築されたものが上野戦争や第二次世界大戦の戦火を免れ今も残っています。 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜が祀られています。
約120年前に撮影されたニューヨークの風景
戦後、犬養毅の最期の言葉は『話せばわかる』だったと喧伝されてきました。 しかし、娘の道子氏によれば、『話を聞こう』というのが正確な内容であったと述べています。 犬養家に長年仕えていた女中も、死にゆく主の口から『話せばわかる』という言葉は発せられなかったと証言しています。
五・一五事件で犬養毅が暗殺された日、実はチャップリンも来日しており、日本の風紀を乱す彼の芸風を嫌った軍部は、この機会に暗殺を画策していました。 しかし、暗殺情報を事前に掴んでいた世話人の高野虎市の機転により、当夜に官邸で予定されていた歓迎会は中止され、喜劇王は死を免れたようです。
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が凶弾に倒れる「五・一五事件」が起こりました。 議会制民主主義が根付き始めた一方で、世界恐慌を発端とする大不況が蔓延していた最中の事件でした。 海軍将校らに歩み寄る犬養が射殺され、剰えそれが肯定されてしまったことで、軍部の台頭が加速します。
1878年5月14日、大久保利通が不平士族らによって暗殺されました。 大久保は金銭に潔白で私財を蓄えず、それどころか予算のつかなかった公共事業を私財を投じて行うほどでした。 そのため死後約2億円もの借金が残りましたが、大久保の志を知っていた債権者たちは返済を遺族に求めなかったといいます。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1948年5月12日、太宰治が『人間失格』を脱稿しました。 他人の前では面白可笑しくおどけてみせるが、本当の自分を誰にも曝け出すことの出来ない男の人生をその男の視点で描いた作品で、現代に渡り読み継がれています。 また、太宰はその1か月後に、山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しています。
ここから少し笑い話。 幕末の混乱の真っ只中で、時の経過と共に品種改良の事は忘れさられ、26頭の馬は散逸してしまう。 これを知ったフランス公使は、ナポレオン3世の厚意を踏み躙ったと、遺憾の意を外務省に伝える始末。 重大な国際問題になりかねないと焦った政府は必死で馬探しを始めたという。
日本が開国した頃、フランスでは「ノゼマ」という伝染病により生糸の元となる蚕が大量死する被害を受けていました。 これを知った14代将軍徳川家茂は、蚕の卵を産み付けた蚕紙数万枚をフランスに寄贈。感激したナポレオン3世は、軍馬の品種改良に供する為のアラビア馬26頭を江戸幕府へ贈呈しました。
約120年前に撮影されたニューヨークの風景
渋沢栄一が京都へ到着した頃の登場人物たちの年齢をまとめました。 京都にて朝廷、有力諸侯らと渡り合う一橋慶喜はこの時まだ26歳でした。 #青天を衝け
【高杉晋作の残した言葉 】 “3年は軽挙妄動せず学問をしろ。 そのうちに活躍する時が必ず来る。 英雄は、普段は非人乞食となって潜り、いざという時に龍の如く振舞う。困ったと決して言うべきでない。困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局でも、何困らぬという気概でいれば、自ずと道が開ける”
明治時代に撮影された長野県 中山道沿いの風景
明治時代の初め頃に撮影された日本の風景